中学生までそこで生活し、高校入学とともに独り暮らしをはじめました。
当時は、何不自由なくむしろ恵まれた生活を送っていましたが、私が高校三年生 の時、父の会社が倒産。
あと卒業まで数か月というときに私一人を北海道に残し、父と母は妹を連れ、夜逃げをしてしまいました。
いきなり変わった環境と、進学の断念等で落ち込み、性格的にも内にこもるよう になり、何をしても無感動な日々を送っていました。
それからしばらくして、家族が横浜にいることがわかり、人間関係や仕事がうまくいかない私は何かを期待して上京。家族と再会しました。
しかし、倒産後の家族の心はバラバラで各々好き勝手なことをしそんな関係にいつしか自分も皆を恨むようになり、特に母とは織り合いが悪くなっていきました。
母は家を出、妹も会社の寮に入り私もアパートを借りていたため、父は寂しく一 人で生活をしていました。
その後、私は縁あって学会員である妻と結婚し、横浜で入信、現在に至りますが、自分の入信で得たものをきっかけに反対で嫌っていた父を折伏。
理解を深め、平成6年7月3日に父は入信しました。
それから、父との関係は、うまくいくようになり、よく行き来するようになりました。
そんな年月が流れるなか、平成7年の9月に5年もの間行方不明だった母から、 真夜中に電話がありました。
自分はあいかわらずつっぱねてみせ、1時間以上口論をして「よっぱらってでもいるのか!」と切ってしまいました。
ところが、その三週間後、これまた4、5年会っていない妹から電話があり、母が重い病気かもしれないといわれました。
しかし、何か困ったことがあって助けてもらいたいがために、嘘をついていると思い、つっぱねていましたが、妻から一度確かめてみたらとの言葉にひさしぶりに妹に会い病院へ行きました。
5年ぶりに会った母を目の前に、変わり果てた母を目の前にそれでも自分の心は ふっきれず、「別に心配して来たわけじゃねー。」と言い放ち、担当の医師のと ころに話を聞きに行きました。
病名は、不明で、奇病とのこと。
あえていうならば、ガン肉腫ということで三か月の命と宣告されました。
肉腫というのは、ガンよりも重く、やっかいな病気だということでした。
父も母のことは嫌いで絶対に会いに行かないといっていましたが、内容を話すと、「信心させるしかないな」と、言いました。
それでも自分は心の整理がつきませんでした。
何の為に信心しているのか、自分の母の命が消えようとしてるときに及んでもふっきれない自分に腹がたち、自分の親のことですが結婚して始めて妻と口論しました。
心のどこかで自業自得だと思ってみたり、恨みは消えず最後まで俺らを苦しめやがってと思ってみたり…いろんな人から激励をいただきましたが、最後に自分の気持ちをふっきろうと本部へ行き、そこで「すべて一番良い方向へ向かって行くように、お母さんのこともそうだが、自分たちが良い方向へ行くようにと祈りなさい。」と言われ父とも話あい題目をあげて行こうと決意。
それから皆の戦いが始まりました。
金銭的にも、入院費等の莫大な金額を請求され、しかも時間的にも体力的にも静 岡から川崎の病院まで通うことはとても辛かったのですが、母にも信心の話をし て、仏法理解に努めました。
ワラをもつかみたいほど苦しい母は、はじめは強がりからかかかわらないようにしようという感じでしたが、あったこともない同志からの真心の激励の手紙やお見舞いが届き、感激の中で信心したいといいました。
入院しているので、御本尊授与が難しいとみるやいなや圏長のはからいで、携帯お守り御本尊を授与していただくことができたのです。
私は、とにかく先生の弟子として学会員として残された時間を送らせたいとの思いしかありませんでした。
妹にもこの間、入決をとり一緒に題目をあげていくよう妻からも激励してもらいました。
ちょうど十年前、夜逃げをし、一家離散になり、恨みあい憎しみあっていた家族がこの病室で十年ぶりに同じものに向かって進み、助け合い、励まし会う光景は本当に考えられない世界でした。
同志のみなさんの応援もあり、水を呑んでも吐いてしまいガンの肉腫でパンパン だったおなかもすこしづつ引っ込み出し、食事もとれるようにまでなってきた1 2月、本当に題目はすごいと母も感じていました。
私が何よりおどろいたのは、私が見ていないときに父が母に「題目」のことをいっしょうけんめい教えていた光景を妹が見ていたということでした。
その後、暮れに近づくにつれ、母の容態は日々かわり何ともいえない状況が続き ました。
12月23日私は初めて病院につきそって泊まることにした日です。
夜が妙に長く感じ、それでもめったに泊まれないからと題目をあげながら体をさすり、手を握りしめ、
「お前ごはんたべたのか」
「ああ食べたよ、泊まるから夜食まで買ってきちゃったよ」と、私をいたわる苦しげな母を前に、
「お前ちゃんと勤行したことないだろう。俺な、夜の三座を教えてやるから聞いていろ。」と耳元で初めました。
そして、お題目をあげた後、眠りについた母を横に書き残した年賀状を書いていたところ何かモゴモゴッとつぶやいた後、急に息がとまりました。
何がどうなったかわからないまま、看護婦がとびこんできました。
家の方に連絡してください。との言葉のまま、電話に走り、病室にもどった夜11時35分病院の先生も驚くほど安らかに帰らぬ人となりました。
しかし、顔は腫れ上がり、はんびらきの口をしており「ああ、成仏させてあげられなかったのかなぁ」と、悔やみながら遺体安置室に降ろされた母を前に、さあみんなで題目をあげようと、携帯御本尊に向かいました。
題目をあげ用をすまそうとしたとき父が「みんな見てみろ」と叫ぶので集まってみるとそれはもうみごとな成仏の相に変わっていました。
葬儀も同志のまごころの手助けもあり、立派なそして、さわやかな友人葬ができ、近隣の人達も感動していました。
そして、何より妹がこの仏法のすばらしさを感じ取り、御本尊をいただきたいとの心になっていました。
又、この葬儀の感動をきっかけに、今まで活動はほとんどしておらず独り暮らしをしていた妻の弟が「ねえちゃんすごいね。俺も御本尊いただくよ」というではありませんか。
そして、3月にまず弟が御本尊様をいただくことができました。
そうなると、次は妹の番です。
妹の夫の宗教嫌いもありましたが、皆で対話を重ね妹の夫からも入決をとることができ、御本尊授与前日まで様々な魔が入りましたが晴れて平成8年の5月3日というすばらしい日に千葉で御本尊様を頂くことができました。
これで、私の家族も妻の家族もすべて御本尊様を受持する事が出来ました。
葬儀の一切がすべてすみ、静岡へ帰って来た次の日の大晦日に子供が交通事故に遭い足を折るなど本当に本門の初年にあらゆる難がきそい起こりましたが、それもこれも今日のための御本尊様のはからいとつくづく感じます。
最近、父が脳梗塞にみまわれましたが、手のしびれだけで医者から「仕事なんか 休まないでどんどんやりなさい。」というほど軽くすみ本当に守られたと父も唱 題に励んでおります。
十年前からの我ら家族の宿命が、これから始まる十年に向かい本当に転換出来る時なのだと心から感じます。
自分自身も本当に弱い人間でしたがこの創価学会の、また池田先生のおかげでここまで来ることが出来ました。
今度は自分が恩返しをする時です。
2005年5月3日を目指し、日顕宗や国家権力の謀略に屈する事なく正義の証明を 勝ち取ってまいります。
昨年12月に部長の任命を受け今年4月にこの地に越して来るまでにも、悔いを残さない戦いをしようと、折伏に人材発掘に走り切り、2人の弘教が実りました。
また、神奈川に来て早々、先に行われた世界青年音楽祭にも、音響の一員として参加させて頂き、池田先生との神奈川での再会を果たし、また金の思い出を刻むことができました。
さあ、これからいよいよ11、18を目指し、本年最後の折伏です。
まずは私が先駆をきって必ず結果を持って先生に御答えして参ります。
池田先生は一番苦労をした人が、一番幸福になるのがこの仏法であると常々語られます。
わが家の宿命をすべて転換し「法華経の行者は冬のごとし。冬はかならず春となる」との御言葉を胸に、十年後には誰よりも幸せな家族になり、誰よりも戦ったといえる人生を今日より新たな決意で前進して参ります。
以上
(S.Y.)
(藤沢圏/湘南台支部/婦人部員Y.Yさんのご主人様)