Mrs. Yoshiko Miwaさんの体験発表


今回1ヶ月前にMさんよりグリーンカード 取得に関する体験発表をと勧めていただきましたが、実の所を言うと本日のこの体験発表に関して大変悩み、昨日ようやく仕上げることができました。

今年で信心12年になりますが、初めて公の場での体験発表ということもあり勇気を持って発表させていただきます。


まず始めに、この中でもし自分に対し「ダメだ」とか「出来ない」とか思う人がいたら(いないとは思いますが)、耳を傾けていただけたらと思います。

私は信心12年、アメリカ7年になります。

世界市民と交われる一流の人間になるためにアメリカにやってまいりました。

アメリカに来ることを入信と同時に夢に抱き無我夢中できたものの、来てみたところ右も左もわからず池田先生、アメリカSGIに抱きかかえられるように今日まで来ることが出来ました。

渡米当初より永住を決めておりましたので、こちらの生活の基盤とグリーンカードに悩む日々を送っておりました。

そんなおり、たまたま ひろむ北川さんというヘアーデザイナーの方に出会い、うちの店で働かないかと言っていただき、ヘアーサロンのアシスタントとスタジオメイクの仕事を併用して毎日暮らしておりました。

しかし、もともと不器用な私は何をやっても店の人をイライラさせてしまう。

時にはあまりにもの緊張のために店のワゴンをひっくり返し、あわててつまずき自分も転がってしまうなどと、静かなビバリーヒルズの店は私が歩くと共に雑音に包まれるのです。

とにかく何をやってもすんなりとはいかず、人の2倍も3倍もやらないと他の人とは同じようにはいかないのです。

いいかげん ひろむさんにも呆れ返られ、才能はあるかもしれないが内では使えないと断られ「いや、ひろむさん。そこを何とかよろしくお願いします」と頼み込み、2年アシスタントをさせていただきました。

しかし、アメリカでヘアーメイクとして生きていくのならば、免許取得をしなくてはいけない。

しかし普通の人だったら半年~1年で取れるはずのものを、私は受験資格の高校の卒業証明書がなかったため4年もかかってしまいました。

何をやっても人の倍の時間がかかる私。

正義を貫く学会員は2倍3倍の努力が必要だといわれますが、私は4倍6倍やらなければいけないのかと思うと情けなくなってきました。

ようやく免許取得後、スタジオの仕事が70%位になっていたため仕事の売り込みと作品づくり、イメージトレーニング、イングリッシュトレーニングに明け暮れる毎日でした。

そんな時、グリーンカードの問題で行き詰まってしまったのです。

一人目の弁護士はサロンで取るようにと言いましたが、私以外にたくさんのグリンカードが必要なスタッフを抱えているひろむさんにお願いすることはできず、結局フリーランスの私にとってスポンサーはいない。

探しても探してもスポンサーは見当たらないのです。

二人目の弁護士はアウトスタンディングの0ビザの申請を行いました。

スポンサーはメイクアップユニオンです。

この申請もユニオンから見事に蹴られ弁護士にさじを投げられました。

あーもうだめだと思いましたが私にはどこにも帰る場所などないと思い、無我夢中で前に進んで行きました。

そしてアメリカ5年、信心10年を迎えた頃です。

私個人の闘いとして真の宗教革命である宗門問題の闘いに情熱を燃やしておりました。

仏敵日顕とのアメリカの地での闘いは、私にとって恩師池田先生と共に作り上げる真の人間世紀を作り上げる大ロマンであると感じ、真の精神の自由とはこの宗門問題に全て含まれてると確信しました。

92年にパスポートをアメリカで不意に無くし、ビザ再取得のため日本に帰国した際、突然池田先生の会合に参加させていただき、リーダーの9つの条件のご指導に触れ、また宗門の汚い権力を聞き怒りがわき上がり、ロスにて宗門問題の決着をつけたいと決意しました。

私にとってある意味で仏敵日顕は大諸天であります。

まるで日顕に八つ当たりするかのように、今までの行き場のない怒りがそのまま私を立ち上がらせたのです。

その後、第一総合方面でのエキジビットと我が家での毎週5時間題目闘争、本部での宗門問題の翻訳及び対策委員会など、あらゆる活動に参加させていただきました。

そんな中、仕事も少しずつ忙しくなり、95年にある一人の弁護士に会い「君はスペシャルアーティストとして10名以上のグラミーレベルの人達から推薦状を貰うといい」と言われました。

推薦状の内容は、今後何らかの賞を取る可能性があるという内容で、スポンサーは私自身のセルフスポンサーであり、今まで誰からも聞いたことのない方法でした。

訳がわからなかったのですが、私にはそれしか道がない、前に進むしかないと思い、弁護士と共に進み始めました。

とにかく仕事の状況をまめに伝え、推薦状を貰えそうな人に対し弁護士のオフィスで推薦状を作成し、サインの許可が出たら相手のレターヘッドに文章を写し、サインを貰う方式で進めていきました。

その作業のため、先方とも2度も3度も連絡を取らなくてはならない。

皆忙しいのに、こんな私の言葉を聞いてくれるのだろうかと思い、できるわけない。

でもこれしかないと自問自答し、悩む度にSGIのなかで真剣に宗門問題のためのホ-ムビジテーション、題目闘争に体当たりで進んできました。

そんな中、毎月池田先生にお手紙を書かしていただき、ある日、ふと聖教新聞に目がとまり、「母の祈りを背に走れ」という池田先生の言葉に触れたのです。

その後、必死の思いで前に進む中、ご本尊様って本当にすごいなと思いますが1人、2人とアカデミークラスの方々と仕事をする機会ができたのです。

その時私がご本尊に願ったことは、自ら、そして我が友が世界広布の人材として世界に羽ばたくということでした。

しかし実際にハリウッドのトップ方々と共に働くということは私にとって大変なプレッシャーであり、元来の劣等感から大変なドジをおかし、仕事を帰されることもありました。

また、ハリウッドに憧れ、夢を見ていたものの、実際にその中に入ってみると自分は今までこんなものを求めていたのか思い、戸惑いを感じる毎日でした。

そんな中、また先生にお手紙を書き、決意を起こし、奮闘するとき「行き詰まったら貫け、職業は美・利・善を選ぶとよい。でも今は、出来ることを精一杯していきなさい」という先生のご指導に触れ、その時ほど先生の言葉が命に突き刺さったことはなかったと思います。

そして、SGIの組織で闘い抜き社会でも実証を示し「絶対に10枚の推薦状を取ってやる」と大確信を起こしたとき、夜1人で題目をあげていると、グーといううなり声の涙に変わっていきました。

「ちょっとまて」何がそんなに悲しいのか自分でもわからない。一体この悲しみはどこからやって来るのかと思うほどでした。

それと同時に過去を思い出したのです。

もう忘れたことであり、忘れようと努力していたこと。

遠い昔のこと、父の叫び声、母の悲鳴、ガラスの割れる音、母が殺されてしまうと思い、毎晩のように姉と二人で助けを呼びに近くの交番に駆け込んでいった日々のこと、あの冷たかった警官と近所の人達。


私の家は神奈川県横浜市にあり、日本人の母と北朝鮮から亡命したと思われる父、そして姉、祖母と暮らしておりました。

祖母はまじめな立正校正会の信者で、毎日一生懸命に題目をあげておりました。

一家での信仰者は祖母のみで、その祖母が毎朝毎晩懸命に題目をあげているのにもかかわらず、夜になると我が家での戦争が始まる。

酒に酔い、母に絡み始める父は日本に対しての散々な怒りを母にぶつけ、おまえの国は私達にこうしたのだと日本の国の誰から受けたのかわかりませんが、父が受けた拷問を母にそのままやり返していました。

ある時は母の髪をつかみオーブンで焼き、棒で殴り骨を折る、身体中に火傷を負わせ、母はいつも声にならない悲鳴をあげ本当に死んでしまうかと思いました。

まだ本当に小さかった私ですが、子供の私にも日本で父がどのようなことをされていたのか、母を通してわかりました。

いつも母のことが心配で学校に行けるどころではありませんでした。

子供の頃、母はあまりの辛さから、つい私に「おまえさえ生まれてこなかったら」とか「おまえには、あの朝鮮人の血が入っている」と言って、私を叱ってしまうことがありました。

私は子供ながらにも、いったいこの苦しみは何なのか。

戦争が終わってずいぶんたつのに我が家ではまだ続いている。

人間の生と死とは何なのか、人種の違いとは何なのか、なぜ生まれてきて、生きる意味とは何なのか。

そのようなことをいつも心に叫んでおりました。

私が10歳の時です。

いつも学校に私を送ったことなんてなかった母が、私を送っていくと言いだし校門まで来ると、泣いたことのない母が泣き崩れていました。

わからないけれども、私も悲しくなってしまうので、急いで校舎に入り母がいなくなるのを見届けました。

その日、学校から帰ると母の荷物はなくなっておりました。

父はその後、母のいなくなったことを知ると、二度と私達の前には姿を見せませんでした。

6歳年上の姉は自立し、私は祖母と二人で暮らすなか、祖母が母親代わりに一生懸命に行儀作法、歩き方、言葉の使い方、靴の脱ぎ方、習字、折り紙、絵画などを教えてくれました。

その祖母も立正校正会の中で題目をあげ抜いた結果、痴呆症がひどくなり私が13歳の時、血をもどしその中に顔を埋め死んでしまいました。

何とも言い難い一家離散。

これほどはっきりしているのか。

それからの私の落ち方、ふてくされ方もう誰にも止められなかったようです。

人が私に近づこうとすれば噛みつく思いで「うるさいわね!ほっといてよ一人で生きていくんだから!」といった感じでした。

何とか公立高校に入学はしたものの17歳で中退し、自らの自立を求め美容室で働き始めました。

18歳の頃、生きることの意味が見つけられず自殺未遂をはかりました。

奇跡的に助かったその後、近所の方の紹介でこの信心に巡り会いました。

それからは死んだ気になって、もう一度ご本尊様と共に人生をやり直してみようと決意させていただきました。

その光景が信心10年たちまたよみがえって来たのです。

私は無我夢中に先生の指導を読みまくりました。

そうだ苦楽共に全部意味がある。

いまここで命の根底にある苦しみを開いていこうと決意して闘わせていただきました。

SGIの活動と仕事、グリーンカードの推薦推薦状取得に闘う中、先生の方便品、寿量品講義にあたったのです。

その中で池田先生は戸田先生が韓国、北朝鮮の人々に思いをはせ語られたことをこう綴っておられました。

「無惨に踏みにじられ引き裂かれて殺されていった民衆の嘆き、悲しみ、怒り、悔やみ。戸田先生はアジアの民衆の苦しみを我が国のこととされ心で慟哭(どうこく)されていた。全ての人々の目から涙をぬぐうためにただ一人妙法広布の大闘争に立たれた。一人一人を妙法の当体とする諸法実相の仏眼から見れば全ての人々は皆かけがえのない一人。民衆も関係ない。地位も出身も関係ない。差別などあってはならない。全ての人間よ輝け!全ての生命よ輝け!」と、その言葉を命で感じたとき、私を捨てた父が実は被害者なのだと、母が被害者だと心から思え、なんのわだかまりもなく幸せになって欲しいと、真剣に題目を送れるようになりました。

そこにたどり着くまで10年の信心がかかりました。

長かったですが私が開け始めたのはそこからです。

その後どんな苦しいときも、あきらめるな、自分を無力だと思うな、それを夢物語だと決めつけてはいけない、

与えられた生命を使いきるのだと懸命に池田先生、そしてSGIの方々、また現在の主人に激励され前に進むことが出来ました。

人の慈愛に触れ、温かさを知り、ここまで来れたことをどれだけ感謝したらいいのかわかりません。

この10年目の信心の際、自らの一凶である自分はダメな人間、死んでしまいたいというこの気持ちと闘っていたとき組織の報告書を通し、3度先生から激励をいただき、気がつくとグラミー賞を取った方々、アカデミー&グラミーの関係者の方々など18名にのぼる方が諸天となり、推薦状を書いてくれました。

そして作品集とすべての書類を揃え、最終ドキュメント96年12月に弁護士に納め、その6日後にリバティーの判が押されたイミグレーションからの「コングラチュレーション」という返答がかえってきたのでした。

あれだけ悩み苦しんだグリーンカードがたった6日で片付いてしまったのです。

その後ワークパーミットも無事に4月に届きました。

どんなに早くとも8ヶ月と思っていた私にとって、仏法は理屈じゃない、どんな方法や策も真剣な人間の気迫には勝てないのだということがわかりました。

先生よりいただいた『新生の天地に地涌の太陽』の中にある・・・

「このジレンマを打破する鍵は

自らの掌中にあると知ろう

自信の堅き"小我"の殻を

まず破れ!

断固として、うち破れ!

そして曇りなき燈明まなざしを

友へと向けよ!」

というこの言葉通りの結果となりました。

母は私が幸せになるのであらばといって5年前に入信し、現在再婚をし、新しい父もその後入信してくれました。

母は病弱な身体にもかかわらず、私が喜ぶならと一生懸命学会活動に健気に頑張っております。

本日ここにいらっしゃる皆さんのなかで、もし、何か自分が開けないと悩んでいる方がいらっしゃるならば、あきらめてはいけない!

もがきながら一緒にお題目をあげ、1ミリでも2ミリでもいいから、とにかく前に進もうと伝えたいです。

そして共に不幸の人を足蹴にして馬鹿にし、片隅に置き、除け者にするそんな社会を絶対にこの信心で変えていきたいと心から思うのです。

一人を思う慈愛と勇気の大切さを教えてくれた池田先生とSGIの方々に心より感謝しております。

「一生は夢の上・明日を期(ご)せず・いかなる乞食にはなるとも・法華経に傷をつけたもうべからず」

とのご教訓のごとく目先の物事に一喜一憂されることなく、三世で物事が見れるような大きな境涯を開いてまいります。

本日はありがとうございました。


SGI-USA/婦人部/Mrs.Yoshiko Miwa



*人物の名前はご本人の希望により一部変えています。



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