祝・SOKAはん



 私を創価学会に導いてくれた、友人アキちゃんのご主人、マコちゃんが・・ 今年5月、めでたく本部の創価班として、デビューする事になりました。(埼玉県在住)

 あの、おねんねマコちゃんが・・・5年前に目覚め(妻と子に、置いて行かれる気がしたそうです)それからの成長の早いこと・・・おめでとう! マコちゃん!!  1年やったら、壮年部に行くと決めているらしいけれど。がんばれ!マコちゃん!!

その輝きをいつまでも・・・我が家の創価半の学会デビューは何時の日か?

2001年5月3日の式典までには、と固い決意でおりますので、待っててくださいね。




(私の体験です)



 私は昭和59年12月6日、高校時代の友人であるアキちゃんの、強い力に折れ入会しました。

当時、特別悩んでいることもなく、信心をする必要性も感じていなかったのですが・・・アキちゃんの涙ながらの「一緒に幸せになろうよー」に、深く感動し入会を決めました。

仏法がどうのではなく、この友を信じて入ろうと思いました。

(ほかの変な宗教じゃなくて、本当に良かった!!)  いきなり妻に、「創価学会に入りたいの」と言われた夫。

「他のことならともかく、宗教?それも創価学会・・・」猛反対です。

やると決めたからには、どうしても入会したい私は、生まれて初めて両手をつき 「いい奥さんになるから、入会させて」と頭を下げました。

okが出たときの喜びは忘れられません。

 夫も忘れておらず「いい奥さんになると言ったのに、うそつき!!」と、未だにいわれており、そのためか未入会です。

 結婚して15年ですが子供はおらず、夫と二人暮らし(プラス猫のモモ)です。

・・・が、楽しくやっております。

 入会して13年。その間いろいろなことがありましたが、一番「この信心をして良かった」と感じ、感謝したのは、入会7年目に起こった、大好きな母の病気と死に直面したときでした。

 私は3人兄姉の末っ子で、母が40歳の時の子供です。

幼い頃は病弱で、生きるか死ぬかの大病をしたため、とにかく甘やかされて育ちました。

 11歳の時に、父を病気で亡くしてからは、それまで以上に母から愛情をかけてもらい、私は甘えきっていました。

 その大好きな母が「急性骨髄性白血病で、明日死んでもおかしくないほどに悪い」と聞いたときは、ショックで、くやしくて・・・「学会も、信心も、御本尊様も嫌だ!!」と、自暴自棄になり「誰にも会いたくない!」と避けていましたが、埼玉のアキちゃんから電話があり「こんな時に何も言ってあげられずに、ごめん」と泣いていました。

 このとき、我慢していたおもいが溢れ出て、私もはじめて声を出して泣きました。

二人で泣くだけの電話でしたが、それはどんな言葉よりも暖かく、うれしく、ありがたいものでした。

 そして数日後。アキちゃんから、分厚い手紙が家に届きました。

それは真心あふれる激励の手紙で、こんな友達のいる私は幸せだと心から思いました。

その手紙に「誰も信じられなくても、池田先生にだけは手紙を書いて」とあり、「何百通も届く手紙を、いちいち先生がみるわけない」と思いながらも、アキちゃんの気持ちに応えようと、泣き言を並べた手紙を出したところ、池田先生から、母と私にメッセージと『雄渾(ユウコン)』(雄々しくて、勢いがよい、力強くよどみがないことの意)と書かれた、おふさが届きいました。

「一人を大切に」の言葉どうりの先生・・・そのときの感激は言葉にできません。

『まことの時』に信心を忘れかけた自分を反省し、それからは信心でがんばることができました。

母も一緒にがんばってくれました。

「御本尊様をいただくわけには行かないけれど、学会に入るのはいいよ」と、カードに署名し、ともに唱題し、きつい治療を乗り越えてくれたのです。

半年後には大学病院で4人目、高齢者でははじめてという快挙を成し遂げ、退院することが出来ました。

それで私も安心して、夫の札幌転勤に同行することが出来ました。

海を越えると、なかなか来るのが大変なので、母のいる盛岡(岩手県)へ離婚覚悟で帰ろうかと、考えていた時の退院だったのです。

 退院して2ヶ月後。食欲がなくなり再入院をし、検査をしたところ・・・『胆管ガン』が見つかりました。

なんと末期で、「あとひと月の命」とのことでした。

 県下で一番の病院に、半年も入院していたのに、なぜ見つけられなかったのか! と一時は腹立たしさでいっぱいでしたが、唱題していくうちに、「もしガンが見つかっていたなら、母の嫌がっていた手術もあり、自宅に帰っての楽しい2ヶ月の時間を持てなかった。すべてが時なんだ」と思えてきました。

「とにかく、痛みと苦しみがなく一日でも長く生きて」と祈りました。

また、ありがたいことに夫も「どんなに借金してもいいから、思いどうりにやりなさい」と毎月、札幌ーー盛岡間を何度も往復することが出来ました。

 その後、医師も驚くほど痛みも、なんの症状のでないまま土・日には家に帰るという、入院生活を半年間送り、太陽のごとく明るい母は意識のなくなる直前まで「笑いのある人生はいいね!!」と笑顔でいてくれ、最後の2日間は眠っている状態でした。

瞳孔も開き、意識はないようですとの医師の話でしたが、大白蓮華に載っていた(耳はまだ生きている)の話を読み、絶対に聞こえているとの確信をもって、二日間交代で話しかけ続けました。

いよいよ数値が下がりはじめたときには、歌が大好きな母ですので、皆で歌いました。

いくら個室とはいえ、夜中に十数人の合唱で病院も迷惑だったでしょうに、何も言わず見守っていてくれました。

歌声が切れると数値が下がるので、1時間は歌い続けたでしょうか ・・・

そして、どんなに歌っても数値は上がらなくなり、最後の時が来たことを知りました。

一人一人が、別れの言葉を母にかけました。

私は今までの親不孝を謝りました。

全員が話し終わったとき。意識のないはずの母の目が開き、最後の力を振り絞るかのように「あ・り・が・と・う」と言って目を閉じました。

このときの母の姿と言葉。

そして、来世で必ずあえることを信心で学び、そのおかげで今、私は笑って生きていられます。

 病室には家族・親類・医師など17人いたのですが、「今やらなければ、一生後悔する」と勇気を奮い起こし、母の耳元で題目を唱えました。

 姉から「そんなことやめて!」の、ヒステリックな声も飛びましたが、「私は、私のやり方で送らせてもらう」と、題目をの唱えるなか、母は旅立ちました。

 題目で送れたことが、今まで一番の私がした親孝行だと思っています。

この母の娘として、恥ずかしくない人生を歩んでいこうと、この日決意しました。

 長くなりましたが、池田先生の「自分自身が厳たる灯台として、喜びに輝き、堂々と生き抜いていけばよい。

自分が輝けば人生に闇はない」との言葉を胸に。

「負けるもんかー!!」でがんばっていきます。


第一宮城常楽県/太白常勝区婦人部/K.厚子(モモ)/37歳・主婦




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