シンガポール創価学会(SSA)壮年部体験談集「突破」シリーズ4

絶望のどん底から幸福の絶頂へ

ベトック南支部
K・ラジャン地区部長


「冷静になって考えてみると、無意識のうちにも確実に、私の人生に於ける重大な変化が起こっているのに気がついたのでした。」



困難に立ち向かっている同志を励まして、戸田先生は言われた。
「人生には、暗いトンネルに入り込んでしまったのかと思えるようなときがある。
しかし、いったんトンネルを通り過ぎてしまえば、我々の眼前には、また美しい光景が現れるのだ。
要は、途中で立ち止まってはならぬということだ。
最後まで諦めずに行動することが、信心の基本なのだ。」
現在の経済不況や、希望を失わずに病魔と闘われている同志の方々に、私はいつも思いを馳せており、
心からの題目を送っています。
池田大作


私が日蓮仏法に帰依したのは、1995年に起きた様々な事件がきっかけでした。
当時私は、マレーシア系企業のマーケティング担当幹部でした。
報酬や待遇にも恵まれていました。
私は他に、ナイトクラブや企業家支援に特化した請負会社の、二つのビジネスを展開していました。
それらは、双方ともに利益をもたらす事業でした。
妻は、経理を担当していました。
私たちは、メゾネットタイプのマンションに住んでおり、妻は第一子の出産間近でした。
私の人生は、その時までは、うまくいっていました。

不運なことに、私の幸運は長くは続きませんでした。
1995年の年の瀬、妻が息子を出産した幸福な日々の後に、犯罪捜査局許認可部が、喧嘩などのトラブルの多さを理由に、私のナイトクラブ営業の為の娯楽産業免許を剥奪したのです。
私は、直ちに事業を閉鎖せざるを得ませんでした。
18人編成からなる外国人バンドを帰国させ、スタッフの未払給与を支払って解雇する以外は、何もできませんでした。
しかも、テナントの大家さんとの賃貸契約の期間が、契約上まだ2年も残っていたのです。

私は、廃業に伴う諸経費を少しでも小額に抑えようと努力していました。
しかしながら、テナントの大家さんは、契約どおり残り2年分の家賃を支払えと譲りません。
1996年2月までに、私は家賃以外の全ての支払を済ませました。
大家さんは、約3千万円の支払を求めて私を訴え、裁判は高等裁判所で審理されることとなりました。
幸運なことに、高等裁判所は私の現況を考慮して、原告である大家さんの求める損害金を、50%割り引いた判決を出してくれました。

私たち家族は、メゾネットマンションを引き払いました。
ホームレスとなった私たちは、妻の母宅に身を寄せました。

最悪な状況はこれで終わったと思っていたら、新たな不運が私を待っていました。
勤務先の社長が、会社をマレーシアに移す決定を下し、私はリストラされてしまいました。
無職となってしまっただけでなく、副業の請負会社の資器材も売り払い、従業員も解雇またはレイオフせざるを得なくなりました。

泣きっ面に蜂とはこのことです。
しばらくした後、最大の不幸がやってきました。
妻と義理の母が、私には何も言わずに、息子を連れて、妻の兄の家に行ってしまったのです。
話し合いの場を持とうとしましたが、2週間後、妻から離婚届が届きました。
しかも、私が今いる義理の母の家に、これ以上居座ると、不法侵入と看做すとの警告書まで送りつけてきました。
選択の余地はなく、私は身の回りの荷物をまとめて、兄の家に駆け込みました。

離婚交渉は、私の経済的な事由に因り難航しました。
最終的には、私は全てを失いました。
家庭裁判所は、妻に息子の親権を付与しました。
私には、息子との週に一回の接見が認められました。

やがて、他の問題が湧き上がり、情け容赦なく私を追い詰めました。
銀行が私に、未払いクレジット利用代金の回収に追い込みをかけ、ローン会社は車を差し押さえ、HDB(住宅建設委員会)とURA(都市再開発局)が駐車違反料金の督促を始めてきました。

短期間の内に起こったこれらの問題に因り、私は完全に打ちのめされました。
最低最悪の人生です。
私は悲惨な現実から目をそらす為に酒に溺れ、兄弟や友人から生活費を借り始めました。
1996年の年末、私は無職でホームレス、そして無一文でした。

私は、兄弟の家をたらいまわしにされ、1996年の一年間の間に、三回も引越しをせねばなりませんでした。
1997年になっても不景気は続いていました。
私は50社以上の求人に応募しましたが、全て不採用となってしまいました。

母は、お寺にでもお参りして拝んでこいと、私をけしかけました。
日曜日を除く毎日、寺院を参拝し、その寺院の数は一ヶ所から、二週間後には六ヶ所へと増えていきました。
寺院参拝に加えて、星占い師や呪術師、それに易者や様々など宗教家などに助言を仰ぎました。
私はたくさんのお布施をし、マレーシアのお寺へも泊りがけでお参りしました。
お陰で、お守りや数珠、お札(ふだ)だらけになってしまいました。
伝統的な宗教行事の祭壇に無断で立ち入っては、お布施として2ドル紙幣を差し出し、線香を3本立てて、祭られている神々にご利益をお祈りしました。
人々は驚いて私を凝視しますが、私は朦朧(もうろう)状態なので、皆なす術(すべ)がありません。

1998年になっても、私は無職のままで、親兄弟や知人からお金を借りて生活をしていました。
警備員や営業マン、その他、色んな仕事に就いてみましたが、どれも長続きしませんでした。
そんな生活の最中、私は、ハリーという名の、シンガポール創価学会(SSA)のメンバーに出会いました。
彼を通じて、同じくメンバーのマノと知り合いました。
創価学会ジュロン会館での夜、マノは私に、南無妙法蓮華経という題目を教えてくれました。
彼は、私に色々な話を聞かせてくれました。
すぐには理解できませんでしたが、私は彼の話に耳を傾けました。
マノとの会話の間、ずっと彼の誠実で、落ち着いた人柄が伝わってきました。
彼の言葉遣いから、私に対する思いやりと、彼の深い人間性が感じられました。
何故唱題するのかを、彼は私に語ってくれました。
でも、別れ際に、私は心の中でつぶやきました。
「そんな題目なんかで私の大きな問題が解決するのか!? 無理だよ!」

次の日の朝、私はマノとの出会いを思い出していました。
彼の穏やかな顔と、その言葉を思い出していたのです。
余り気乗りはしなかったのですが、題目をあげてみました。
約10日間、題目をあげましたが、「しぶしぶ」という感じでやっていました。

唱題を開始して10日目の朝、心の中にある考えがよぎりました。
「誰も私の生命を奪うことなんてできやしないぞ!
銀行や裁判所が何だって言うんだ!
私をどうにかしたいなら、すればいいさ!」
どういうわけか、ここ3年間経験しなかった確信と幸福感を覚えたのです。
その日の14時頃、ハリーから電話があり、私をお茶に誘いました。
彼は私に、題目をあげた感じはどうだ、と尋ねてきました。
私は彼に、その日の朝に感じたことを語りました。

私が未だに複数の宗教を信心していることを知るや、ハリーは私に言いました
「なぁ、ラジャン!
随分長く苦労してきた後に、やっと君は幸福感を感じ、何らかの確信をつかんだのだよ。
君が他の複数の宗教を信心しているから説明しずらいが、何が君をそのような気持ちにさせたのかは、僕は分からない。
けれども、日蓮仏法以外の、どの宗教が君を助けてくれると言うんだい?
僕は分からないし、君だって分からないだろう!?
君は今、君の手の中に、切れ味鋭い刀と鈍刀(なまくらがたな)の二つの刀を持っているんだ。
どちらの刀が、君が求めていたものなんだい?
僕はどちらかを選べとは、君に強制しない。
君自身で決めるんだ!
よく考えるんだよ!」

バスでの帰宅途中、私は他の宗教を辞め、日蓮仏法に挑戦する決意を固めました。
でも問題があります。
どのように母を説得するかです。
母は、伝統的な古い宗教の強信者です。
それでもやはり、母には話しておこうと決心しました。

帰宅するや、私は重い口を開いて母に告げました・
驚いたことに、母は私に言いました。
「気にしなくていいよ!
全ては神様の思し召し!
何でも信心するのは良いことだし、お前の問題解決には必要なことだよ。」

「やった!」
今、私は日蓮仏法を信心するパスポートを手に入れたのです。
その日からずっと、私は真剣に唱題を開始しました。
毎朝毎晩欠かすことなく、マノがアドバイスしてくれたように、題目をあげました。
その時点では、私はまだ御本尊様を拝んだことがなかったのですが、御本尊様のお力の一端を経験することができたのです。

私の初心の功徳は、驚くほど大きなものでした。


眼前の証拠あらんずる人・此の経を説かん時は信ずる人もありやせん。
(法蓮抄 p.1045)


私は、新しい家を見つけるために不動産業者を回ったのですが、どの業者も、私には到底支払えない頭金を要求しました。
例え、私の中央共済基金口座に退職金口座があったとしても、頭金無しでは不動産の購入は不可能とのことでした。

2週間唱題を続けた後、不動産業者は、リフォーム無しでもいのなら頭金は要らないよ、と言う不動産売却希望者を見つけてくれました。
さっそく私はその物件を見学し、購入を決めました。

それは、私が、センジャ文化会館に隣接した会館寺院である創価山安楽寺での世界平和祈念勤行会に参加してから、僅か三ヶ月の事でした。
そこへの初めての訪問は、忘れることのできない感動に充ち、そして厳かな気持ちを呼び起こされました。
まもなく、私は他のメンバーと出会い、徐々にマリーン・パレード支部での活動に参加していったのです。

そこで私は、勤行を教えてくれたり、座談会や唱題会や友人葬などに私を連れて行ってくれる多くの同志に出会ったのです。
私は、支部の同志に深く感謝し、彼らとの異体同心の信心をとおして、大きな幸運を得られるだろうと考えました。

2000年になっても、まだ私は失業状態でした。
そんなある日、政府主催の建国記念行事に於ける、シンガポール創価学会の演目に参加するように、けしかけられました。
参加手続完了後、私は、新たに設立された物流会社の求人広告を見つけ、予約無しで面接に赴きました。
倉庫補助業務に就くには、私は高学歴過ぎたのですが、驚いたことに、面接担当者はとても好意的で、私の長期に亘る失業状態を考慮し、仕事を与えてくれたのです。

2008年のある日、別れた妻から電話があり、息子を引き取ってくれないかと頼まれました。
それは、思ってもみなかったことです。
よくよく聞いてみると、彼女はガンを患っており、すでに第四期であるとのことでした。
元妻が亡くなるまでの五ヶ月間、私は彼女を看病し、病院へ送り迎えし、そして広布の活動に連れていきました。
私と元妻とは、離婚する前の良好な関係に戻りました。

義理の母との関係も修復できました。
数年来、私が息子に会うために訪れても、言葉さえ交わしませんでした。
しかし、元妻が病気になってからは、定期的に彼女の様子を看るために訪問するので、義理の母は病状を知らせてくれるのでした。
元妻が病院で緊急処置を施されときには、私は職場から駆けつけました。

彼女の死後、私は仏法の本義である創価学会友人葬で葬儀を挙げました。
葬儀の間、義理の母は私の妹に、私が見違えるほど立派な人間になった、と言っていたそうです。
義理の母は、昔の私をよく知っています。
かつての私は、怒りっぽくて気難しく、いつも怒鳴り声をあげていました。
そうして、酔っ払って帰宅しては、元妻と絶えず喧嘩をしていたのです。
息子は今、義理の母の家にいて、彼女は実の息子のように面倒をみてくれています。


この経の題目を・となえさせ給はんにはをぼしめすべし、生盲の始めて眼をあきて父母等を・みんよりも・うれしく・強き・かたきに・とられたる者の・ゆるされて妻子を見るよりも・めづらしとをぼすべし。
(法華経題目抄 p.942)


よくよく考えてみると、私の人生に於ける大事な変化は、無意識のうちにも確実に、私の上に起こっていたのでした。
他の同志の体験談を読み、池田先生のご指導を学んで、私のこれまでの越し方を振りかえってみると、感慨深いものがあります。
信心を始めてから、私は自分自身を更に向上させたいと、強く駆り立てられるのです。
私は、人材開発の能力を啓発する講座を受講しました。
後に私は、トレーナー及び業務管理係並びに教官として、より良い職責に就きました。
今、私は商業学士の学位取得に向けて努力しています。

私の性格は変わりました。
以前の私なら、何か揉め事があると、瞬間湯沸器のように、すぐにかっとなっていたでしょう。
今は、そんなトラブルをかわすことができます。
私は、より思慮深く、そして感情に左右されない人間となったのです。

同志のハリーに出会うまでは、私はアルバイトでしのいでいました。
当時の私のボスは、私の問題について熟知していました。
そんなある日、とうとう私は癇癪を起こして、その会社を辞めてしまったのです。
数年後、偶然にも彼に再会したのです。
私を見るや、彼は近づいてきて、私に声を掛けたのでした。
彼は私に言いました。
「君はとても変わったね! まるで輝いているようだよ!」
日蓮仏法を信心していることを彼に伝えると、彼はとても関心を示しました。
何故なら、彼もシンガポール創価学会の活動家だったのです。

数年後、私は多くの功徳を頂きました。
仕事に於いても、高い役職に就き、生活は向上しました。
私は今、やりたかった仕事をしていますし、多くの友人を得て、経済的にも安定しています。
もっとも大切なことは、息子とも素晴らしい関係を築けたということです。
私は本当に幸せであり、人生に満足しています。
創価ファミリーの中で、日蓮仏法の信心を続けてこられたことは、何ものにも代え難い最高の幸運でした。

最後になりましたが、2030年の創価学会創立100周年に向けて、私は全力を挙げて、広宣流布を推し進めることを堅く誓います。

おわり。





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