Jerry P.さんの体験発表



●不幸を絵に描いたような一家・更に不幸の因を積む

私と両親が入信したのは昭和50年2月14日です。

入信前の我が家は貧乏・病気・家庭不和の3点セットを抱え、不幸を絵に描いたような家族でした。

当時名古屋に住んでいましたが、父は体が弱くて仕事を転々としており、母もパートに出ましたが、父がとても人付き合いに不器用な人で、そのうえ計算等があんまり得意ではないために毎日「金を使いすぎる!どこへやったんだ!!」と大喧嘩、近所の人とも大喧嘩で村八分状態だったようです。

そんな我が家を見かねた方が何人か母を折伏してくれたようですが当時母は聞 耳持たずで「学会なんて大嫌い!絶対に入らないから二度と来ないで!」と追い払っていたそうです。

父は独身時代に一度入信していました。

しかし、ほとんど信心をするでもなく、自分が学会員だと言うことも自覚がない状態。

そんななか、母の実家のある広島に帰ろう、という話になりました。

荷物をまとめる際に、母はあろうことか、父がそれだけは、と大切に持ってい た御本尊様をゴミと一緒に置いてきてしまったんだそうです。

もっとも、御本尊様がどれだけ大切か、ということを知ったのはずっと後のこ とだったんですけど。


●どん底の状態でやっと巡り会った信心

御本尊様をないがしろにし、学会の方をないがしろにした罰はとてつもなく大きなものです。

広島に帰ってきた我が家を待ち受けていたのは田舎故の“よそもの”差別、そ して、貧乏人!との嘲笑でした。

そんななか、隣に住んでいたSさんに座談会に誘われて入信。

母はその時のことを未だに不思議でしょうがないと言います。

あれほど学会を嫌っていた筈なのに、そのときにかぎって“こんなに悪いこと続きなのは自分が何も宗教を持っていないからだろうか”と思い、抵抗は全くなかったのだそうです。

きっと、隣の方が相当御題目をあげていらしたのでしょう。


●母の戦いがはじまった

その後、父も母も一生懸命に活動をし、何時間も唱題に励み、頑張りましたが、ささいなことをきっかけに父が退転。

毎日のように組織の人とけんかをするし、会館や本部にまで苦情の電話を入れてみたり、本当に困らされました。

母は何度も離婚を考えたし、私自身もそうすることを進めました。

しかし、幹部指導をうけにいったときにいわれたそうです。

「あなたの宿業なのよ、ご主人でも娘さんでもないのよ。今、ご主人と別れて も今度はもっとひどい男の人にまたひっかかるか、娘さんが今のご主人のよう になるわよ。宿命転換するしかないんだよ」

そういわれて、離婚を踏みとどまったそうです。

未入信時代を含めると29年間、母は父に地獄の苦しみを与えられてきました。

逃げても逃げても付いてくるし表向きいい人ぶるから母の方が悪者になってしまうし、特に信心を退転してからは「気が触れている」としか言い様のない父になってしまいました。

家出も夜逃げも数え切れないほどしました。

子供心にも朝、両親がケンカをしていると学校にいる間中“もし刺し違えでもして二人とも死んでいたりしたらどうしよう”などと考えてしまい気が気ではありませんでした。

口げんかは一年中、殴り合いのケンカも私が中学2年生になるまで続きました。

父をお金の面で説得させるために私が家計費の計算を担当していたので小学校低学年にして銀行の利子計算まで出来るような子になってしまいました。

御本尊さまを隠されたことも2度ありました。

私も父も体が弱く、二人が交代で入退院を繰り返し、家は父の放蕩も手伝って借金だらけ。

近所の人からは見下され、笑いものになり…それが我が家の姿だったのです。

それでも母は気丈に信心を続けました。

“我並びに我が弟子諸難ありとも…”と、開目抄の一節をいつも口にしながら、耐えに耐え続けました。

6年前に父が食道ガンになり、入院。

あることないこといい回る口を恨んで恨んで、「あの口に焼け石を詰めてやりたい!」と母が常々思っていたことが罰の現象として父の身に実際のこととなったのです。

17時間にも及ぶ大手術(全身を大きく十字架に切り刻まれました)、10日以上もの意識不明を乗り越え父は自分で歩き一時退院するまでによくなりましたが、手術から10カ月後の平成4年12月18日、なくなりました。

手術の時、思いがけないことを主治医の先生から言われました。

「ご主人、ずいぶん短気で突然怒ったりしませんでしたか?日常手足がふるえ たりしませんでしたか?」

何故そんなことが分かるのだろう?不思議に思いながら「そのとおりです」と 答えると先生はいったのです。

「開腹して初めて分かったのですが、ご主人は合併症として甲状腺機能昂進症 という病気を持っていたんですよ。この病気はそんな症状が出るんです。気が 付いてなかったら手術中に命を落とすところでした。後日機能昂進症の手術も しましょう。手術すれば別人のようになりますよ。奥さん、ご苦労されました ねえ」

長年苦しめられてきた父の性格…それが病気のせいだったのです。

しかも何度も入退院を繰り返していながら長年どの病院でも見つけることが出来なかったのです。

このとき、「これは私たち母娘の宿命転換なんだ!」と、実感し、思わず涙が出ました。


●貧女の一灯

機能昂進症の手術後、父は別人のように穏やかな人になり、私と母に「長い こと苦労をかけて本当にすまなかった」と、涙ながらに謝りました。

それからは当時行われた参議院選挙に寝たきりのまま看護婦さん等に語り、戦いました。

その姿に長年の恨みも消え、後悔しないよう、父の世話をしてあげようと、母は一生懸命に重傷の父の介護をしました。

その間、経済的にも苦しかったのですが、何度も何度も御本尊さまの功徳に守られてきました。

もうお金が底をついた、もうだめだと思うと、何かの形で必要なお金が用意できるのです。

一家の大黒柱がガンで入院し、20歳そこそこの女性ひとりの稼ぎしかないというのに行き詰まることなくやっていけたのは本当に不思議でした。

そのなかでも11月にあった財務では、母の一大決心で父の1カ月分の必要経費と1週間分の私たちの生活費だけを残し、当時の全財産、8万円をご供養させていただきましたところ、(父は長崎で原爆に会っていて、被爆者手当というものを毎月3万円ずつもらっていました)翌日にかねてから申請していた特別手当(月15万円の手当が支給される)が認定になり1週間後には父の入院までさかのぼった金額の約80万円が銀行口座に振り込まれたのです。

特別手当は通常認定される時期が年1回と決まっており、11月などという中途半端なときに認定されることはまずあり得ないのだそうです。

貧女の一灯という仏法説話を実体験したような思いでした。


●結婚・お葬式・・・変わるときは一瞬だ!

12月1日にはそれまで予定もなかった私の結婚が急遽決まり、父が願い続けていた私の花嫁姿も見せてあげることが出来ました。

また、手術以来傷口に空気が入り、御飯も全く食べられなかったのですが、なくなる前の日にきれいに空気が抜け、好きなものをおなか一杯に食べて、大好物だったコーラもたくさん飲んで一番会いたがっていた実の兄が訪ねてくれたのを見届けて安らかになくなりました。

葬儀はキリスト教の父方の身内とももめましたが、私と母と、数週間前に身内になったばかりの私の主人との3人で頑張って友人葬をする事が出来ました。

あれだけ組織を騒がせ、「面倒な人」と嫌われていた父が主人のつながりで(主人は当時男子部区主任部長でした。)、区のあちこちからたくさんの方が手伝いに来て下さってすばらしいお葬式でした。

焼きあがった骨もふつう末期ガンで亡くなると、きつい薬で骨は溶けてガンの所だけ焼け残って汚い姿になるのですが、理科室の標本のようにきれいに少しも乱れることなく成仏したことを親戚全員に証明したのです。

お通夜の日、父の弟が御本尊を指さし、「あんなものがあるからいけないんだ、あんなものはおろして十字架をかけろ!」と怒鳴ったそうです。

兄は葬儀中にロザリオを取り出し、ラテン語で聖書を読んでいました。

その後すぐに父の弟はガンになり、父の三回忌が終わった後に、なくなりまし た。

まだ40代前半の若さでした。

兄が最も可愛がっていた弟でした。

また、現在その兄も入退院をくり返し、今年中生きられるのだろうか、といっております。

人の死を決して喜ぶとかそういうつもりではありませんが現証の恐ろしさをまざまざと見せつけられるような出来事ではあります。

ところで父の入院後、仏壇の中から入院の前日の日付で父の遺書が入っているのが見つかりました。

便せん13枚に渡り、私と母と地元組織の方々への謝罪と、不安と恐怖の胸の内が書かれていました。

その中に和歌らしきものがあり、前半部分は読めませんでしたが後半に「広布の天使は香港渡りぬ」とありました。

実は私の主人は父がその遺書を書いた半年後(そのころ父は元より家族誰一人とっても主人と私が結婚するなどとは考えてもいませんでした。)に香港・マカオに青年部の友好交流団の一員として、行ったのでした。

また、私たちにとっては父の葬儀を無事に行えた大恩人であり本当に“広布の 天使”と呼びたいような存在となりました。

なぜ父がそんな和歌を残したのか、未だに不思議です。

父の死後地元地区に紹介した遺書は大きな反響を呼び、たくさんの仏法対話、折伏につながったそうです。

そして母は、父が亡くなってその父の年金等に守られて今は元気に一人で暮らしています。


●父に最大の親孝行を・・・

かわいそうな父になんとか親孝行をしたい、そんな思いで母と二人、「出来ることなら父を私の子供として生まれ変わらせて下さい。父に、私が信心を教え、池田先生に罪滅ぼしをさせて下さい」とねがい、「もし、父が生まれるなら、父の1周期の日に!」と祈ったところ、父の1周期の平成5年12月18日に長男が生まれ、池田先生に“光一”と命名していただきました。

時間も亡くなったのとほぼ同じ時間でした。

性格も好みも父にそっくりな子です。

題目を上げさせると、キリスト教の人のように手を組むクセがあるのでいま、矯正中です。

親戚一同「あれは間違いなく薫(私の父のあだ名)だ!」といっています。

その後平成8年5月4日には次男が誕生、こちらも先生に昭彦と命名していただきました。

二人とも手の掛からない子で兄弟仲もとても良くいま3歳と1才ですが会合大好きで、いつも二人で小さな手を合わせては「ナンミョー…」と唱えています。

地区の方にもとても可愛がっていただいております。

悩みもまだまだありますが母の苦労を思えば比較にならないもので本当にしあわせです。

母も今本当にしあわせです。

苦労もたくさんしましたけど。

けっして裕福な暮らしではありませんけれどお茶のみ友人もでき、取り立てて悩みもなく孫にときどき会うのを楽しみにしている毎日です。

私自身、子供の頃にこんなしあわせな生活など、想像もできませんでした。

御本尊さまに、池田先生に、そして長年私たち親子を支えて下さった同志の皆様に、感謝感謝の毎日です。


…と、めでたしめでたしで終わるはずだったのですが、私の宿業はそんなに甘 いものではないようで宿業の嵐第二弾とでも言いたいような大変な問題が噴出している今日この頃です。

しかし、たくさんの友人達に励まされながら頑張っています。

この大きな岐路を乗り越えたときにはまた、御報告をさせていただきます。


以上


(調布市婦人部員Jerry P.)



*人物の名前はご本人の希望により一部変えています。



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