『絶望の底から蘇生した希望の我が家』(兄弟編)


☆広宣流布とは最高の文化運動。
その最先端を行く民音推進委員会の晴れ舞台で、体験発表をさせて頂き、感謝と感激で一杯です。
紅葉色づく晩秋。
逞しく活躍する長男の姿に、身を切られるほど辛く、そして、長かった苦悩の日々が、今思い起こされます。
一九九〇年、長男和彦は二宮高校に入学しましたが、2~3ヶ月で学校に行かなくなってしまいました。
我が家にとっては、将に青天の霹靂でした。
昼は自分の部屋に閉じこもり、夜になると青い顔をして起き出して来る。
「そのうち学校に行く筈だ」そんな期待を持ちつつ1ヶ月2ヶ月と、時は過ぎて行きました。
私たち夫婦は予期せぬ出来事に、狼狽の色を隠せませんでした。
「うちの息子が何故?このままでは、この子の将来は終わりだ。親戚や近所に何て言えばいいんだ」と葛藤の毎日でした。
「このままで終わる筈がない」と、ひたすら信じて活動に励むものの、遂に冬を迎えてしまったのです。
長男の高校中退は、もう隠すことが出来ず、辛い毎日が始まったのです。
学会活動で感激した生命も、我家が近づくと沈んでいくのです。
雪の降るある夜、折伏先に、妻から呼び出しを受けました。
「他人の折伏より、学会批判をしている我が子を、今すぐ説得して頂戴」
その声は悲痛な叫びでした。妻は外で、私の帰りを、今か今かと待っておりました。
帰ると、息子は背中を向けたまま「信心しても碌なことは無い。
どうせ僕なんかどうでもいいんだ」と、吐いて捨てるように言いました。
私は「子供のことを心配しない親などいない。
信心を根本にすればどんなことも転換できるんだ」真剣に話しました。
長男は、そっと涙を拭いていました。
「学校を辞めたい、仕事をしながら定時制に行きたい」と、本音を話し始めたのです。
一年ぶりに見る子供の笑顔に、地獄に仏を見る思いでした。
早速、定時制に入学願書を提出。
しかし、手続きだけで終わってしまい、仕事も3ヶ月とは続きません。
3歳違いの弟が、高校に入学する頃は、物を投げ、暴力を振るうようになり、やがて暴走族まがいで、警察に呼び出された時は、最早、ただならぬ状況下にありました。
溌剌と学校に通う弟、家でゴロゴロしている長男。
堪り兼ねて文句を言ったその途端、私を凄い形相で睨みつけ、怒鳴り散らしたのです。
親に、口答え一つしたことのない私が、事もあろうに、我が子に罵られ、悔しさで眠れぬ一夜を過ごしました。
しかし、それでも私は「子供の教育は母親の責任だ」と、事の責任を、妻に転嫁していました。
翌日、家路に向かう足取りは重かった。本来ならば、心安らぐ筈の我が家が、どうして、こんなにも辛いのか。
許されるならば、役職も解任して欲しい。
どこか、遠い所に逃げ出したい。
追い詰められた私は、本気で大決意をせざるを得ませんでした。
暫くすると長男が「大検の資格を取って早稲田大学に行きたい」と言い出しました。
長男は、部屋に閉じ篭りながらも、池田先生の指導を、読み漁っていたのです。
「勇気とは、苦しいときに逃げないこと、辛いときに、負けないこと、決して、希望を捨てないこと、そして、男子は大学に行きなさい」との指導に、大きく心を動かされたのです。
我が家もこれで転換へのスタート台に立ったかに見えました。
しかし、暮れも押し迫ったある日、大事件が起きたのです。
些細なことから、激怒した長男は、私への憤りが、一気に噴出したかのように、物凄い勢いで、暴力を振るってきたのです。
空手で鍛えた長男に、脇腹を蹴られた私は「うっ」と、その場に、蹲ってしまいました。
柔道・ラグビーで、体を鍛えた次男は、その姿を見て、猛烈な勢いで、長男に、飛び掛っていきました。
兄弟の、凄まじい取っ組み合いが、始まりました。
長男の顔は、殴られて変形し、まさに、修羅場となりました。
妻は、金切り声を上げて只、オロオロとするばかりでした。
地獄のような、苦しみの中に迎える新年勤行会は、悲惨なものでした。
しかし、2月5日、私にとって、生涯忘れることの出来ない、大転換のときを迎えたのです。
家族の出払った我が家で、解決を求めて津々と、題目を上げていました。
その時、先生の「日々の指針」に目を奪われたのです。
「誰のせいでもない。結局自分自身なのだと自覚した時が、如実知見なのだ。
人間革命の第一歩は、ここから始まる事を忘れまい」
私は申し訳なさに、涙が溢れて止まらず、声を限りに泣きました。
「先生、分かりました。ご本尊様、やっと分かりました。すべては私に有ったんですね」
題目は、涙で声になりません。
その涙とともに、醜い心が、音を立てて、流れていくようでした。
「ありがとう和彦、お前のお陰で、こんなに爽やかな生命になれたよ。」
その日から、環境は何も変わっていないのに、心の中は、澄み切った青空のようでした。
その夜、息子に両手をついて、希望を与えることの出来なかった、父親であったことを心から詫びたのです。
息子は、背中を向けたまま、聞いていました。
その日を境に長男は、別人のように、自分の使命の道を、ひたすら、進んでいきました。
経済的に、厳しいことを 知っている長男は、ラジオ講座のテキストと、タダ読み出来る本屋、クーラーのある、市の図書館を使って、独学で頑張りました。
その年には、大学検定資格を取得し、目的の早稲田を目指して、まっしぐらでした。
いよいよ、重大な 合格発表の日を迎えました。
「合格しなければ死ぬしかない」と、背水の陣で、頑張ってきた、長男の姿を、見てきただけに、合格通知の電話を待つ私たちは、まるで、刑執行前の囚人のようでした。
電話のベルが鳴り、長男からの電話が入りました。
その声は、弾んでいました。合格したのです。
遂に、念願の早稲田大学の栄冠を、勝ち取ったのです。
3・16記念座談会は、地元の地区から招待を受けて,息子と一緒に初めての参加でした。
感慨深い5年間を振り返り、涙の座談会となりました。
最後に息子が挨拶に立ちました。
しかし、肩を震わせて声になりません。
「がんばれ、」のみんなの応援でゆっくりと話し出しました。
「この若さで、貴重な体験をさせて頂きました。両親とご本尊に感謝をしています」私は息子のこの一言で,苦しい長い道のりを歩んで来れたことに、心から感謝をしました。
我が家の感動を先生にご報告したい。私はペンを執りました。
そして私の49歳の誕生日の4月3日,聖教新聞の「声の蘭」にトップで掲載され涙のプレゼントとなりました。
そして、早稲田大学大学院の難関を見事突破して,晴れがましい快挙を遂げたのです。
専攻も「社会思想研究・宇宙社会論」であり、創価学会の正義を訴えたい、という長男の願望そのものでした。
内外の見方は一変し、非難から期待へ、そして希望にと変わって行きました。
当時、自治会の副会長として活躍していた私は,同じ悩みの子供を持つ会員や,中学の父兄会等のパネルディスカッションのゲストとして招かれ,希望を与える存在として活躍出来る,夢のような人生にと、大転換することが出来ました。
そして コンピューターの会社に契約社員として就職することができました。
しかし、その後、契約切れとともに失業してしまい 何ヶ月たっても 就職が決まらないのです。
新宿に住む長男は、お金がなくなり経済的支援を求めて、家に帰ってきました。
我が家は逆立ちしても、20万しかありませんでした。
今すぐ就職が決まっても給料を貰うのは1ヵ月半先のこと。
当面の就職活動のために10万円を渡したものの 残りの10万円もすぐ消える運命になりました。どう考えても足りません。
そのお金は 私のガソリン代・活動費などすべてを含めたお金であり、それを渡せば 私の活動が止まってしまいます。
私は息子に言いました。
「あとお金は余りないよ。就職活動を真剣に頑張って欲しい。だからと言って 就職はどこでもいいというわけにはいかない。世界広布のために活躍できる会社を目指して欲しい。親子一緒に真剣に祈ろう」
本部幹部会で池田先生は「梵天・帝釈・日天月天わが身に入り給えと祈るんだ。そうすれば10倍100倍の力が出るんだ」と指導されたばかりでした。
私は「ご本尊様、あと10万円しかありません。
このお金は息子に渡せば 私は活動が出来なくなります。息子の就職を早く決めさせてください。世界の舞台で活躍できる仕事をください。梵天・帝釈息子に入り給え」と祈り続けました。
1ヵ月後 息子から電話が入りました。
「シアトルに本社のある『アマゾンドットコム』に就職が決まった。一週間後はシアトルに行きます。就職準備金として50万円が支給され、日本円で200万円相当の株券を頂いた」との電話でした。
アメリカのオンラインショップの最大手「アマゾン・ドットコム」に入社することが出来たのです。
今は、日本支社のマネージャーとして、水を得た魚のように 活躍しています。
昨年はドイツ・イタリア・フランスに出張に行きました。
現在日本支社も400人の陣容となり大発展をしております。
そして 自分の体験を活かして 男子部部長として 新宿で 頑張っております。
私にはもう一人息子がおります。
次男・伸之です。大学卒業を前にして「僕は役者を目指しますので、どこにも就職はしません。僕の収入は諦めてください。親に迷惑はかけません」と親に報告に来ました。
実は小さい頃 子役のオーデションを受けました。
しかし、「大人になるまでは・・・」と諦めさせていました。
大学卒業後は、志茂田景樹の付き人を振り出しに、芸能プロダクション・エネストなど、アルバイトをしながら10年が過ぎました。
本業の芽が全く出ません。
おまけにアルバイトもなくなってしましました。
横浜で一人暮らしの息子から 泣きながら電話がありました。
神経障害となり部屋から 一歩も出られなくなったのです。
死ぬことさえ考え出したのです。
夜中に車を飛ばして 何度も夫婦で息子の所に行きました。
落ち込んしまって、別人のようになってしまいました。
この次男 実は滅茶苦茶明るい性格だったんです。
応援団長・柔道部のキャプテン・中学校では人気投票ナンバーワンでした。
小学校の授業参観日など 親の姿を見るや、机の上に登って両手でVサインをして「お母さん、此処、此処」という剽軽者でした。
しかし 大学時代は信心をしませんでした。
今こそ息子に信心を教える時と、真剣に話をしました。
地域の学会の同志にもお願いをして歩きました。
信心とは本当に凄いものです。
あれから7年、逞しい男子部になり、副本部長で活躍するまでに成長しました。
一昨年「NHK大河ドラマ」に出演することが出来ました。
11月18日。
世界が祝う「創価学会の日」です。
みんな「11・18だから凄い、凄い」と言ってくれました。
でも親から見ると、兵士役で セリフは一言もなしで、チラッと出てスクリーンから消えていきました。
空しいものがありました。
昨年は、30分の短編映画の主役になりました。
タイトルは「上向き!」です。
今度は、主役でみんなから 凄いと言われました。
でもノーギャラです。どこか今一釈然としません。
でもめげないで頑張って来ました。
学会活動で 未活動の音楽家を目指す青年に出会いました。
その青年に紹介され、玉川大学の講師をする音楽家にあいました。
世界のトランペッター大野俊三さんの友人でもあり、NHK連続ドラマ「てるてる家族」のテーマーソングを作曲した人です。
昨年3月、お台場テレコムセンターの駅前に「大江戸温泉物語」がオープンしました。
そこの専属俳優として契約が決まったのです。
オープンの日には 夫婦で行きました。
輝いた息子の晴れ舞台を見て感動でした。
毎日が勝負だと言って、生き生きと活躍しています。
「大江戸温泉物語」は全国人気ナンバー・ワンで、昨年暮れで来場者100万人を突破しています。
同じ事務所に「創価グロリア」でユーホニュームを演奏している、大磯の「平田 桂」君も入ってきました。
二男は 生活が苦しくて アパートの家賃が払えないことが 幾度もありました。
そんな時 大家さんが「若いんだから しっかり仕事をして 家賃ぐらい払え・・」と 幾度も怒鳴って来ました。
その大家さんが 先日 家賃一ヶ月以上のご祝儀を持って 大江戸に来てくれたのです。
役者さんも10人になり、息子が座長になったのです。
芸名は「蓮 伸之介」です。
NHK「お江戸でござる」の5人の脚本家が、交替で脚本を書いてくれることになり、3月は一か月公演が決まりました。
今は好きな本業で生活できる 夢のような広布の舞台をいただくことができました。
池田先生は「たとえ転んでも、立ち上がり、再び前へ進む人が、最後の勝利者です。勝つことも大切である。しかし、それ以上に『自分は負けない』という信念を持ち続けてほしい。だれしも転ぶことはある。転んだら、また立ち上がればいい。立ち上がって、まっすぐ前を向いて進んでいくことだ。青春に、取り返しのつかない失敗などないのだから――。」と仰っています。
我家は 辛くても 辛くても 苦難に負けませんでした。
実は昨年私が 糖尿病と診断され、どんどん痩せていき一ヶ月で8キロも痩せてしまいました。
唾液が出なくなり、水を呑まないと話も出来ません。
夜は一時間置きにトイレに起き、眠れず頭もフラフラでした。
診断の翌日から 決意をして5時起きで本気に祈り、運動をし、ゆっくり食事をする戦いを開始しました。
その戦いの結果、血糖値も平常になり、体重も6キロ戻り完治いたしました。
続いて同じ年に、今度は妻が子宮ガンの宣告をされました。
手術は一ヶ月後に決まりました。私は祈りました。
「梵天帝釈日天月天、妻の身体に入り給え、悪徳坊主・日顕消えろ、癌消えろ。手術費用はありません」と。
東海大執刀医の 手術前の再検査を受けました。
無いのです。癌が跡形もなく消えてしまったのです。
主治医は言いました。
「癌がなくなった以上手術はできません」と。
これも見事に勝ちました。
振り返れば、1940年、五人も自殺、事故死のある、不幸な家庭に 私は 生まれました。
父は57歳で自殺、作曲家を目指す兄は、24歳で自殺し、腐乱死体で発見されました。
祖母は 列車に轢かれてズタズタ、弟は 燃えたぎる 囲炉裏に飛び込み、煮えたぎる七草粥を被って 非業の死を遂げ、私は 19歳で自殺未遂。
その上、赤貧洗うがごとき生活。
生活保護も受けました。
みんな真面目で 努力家なのに 何故こんなにも不幸なのか。
複雑な家庭事情で、三箇所に分かれて生活せざるを 得なかった我が家。
この世には 神も仏も無いのかと、恨みました。
どうして、こんな家庭に 生まれてしまったのかと、慟哭いたしました。
22歳のとき、創価学会との 出会いがあり、「宿命転換、使命に生きる人生、絶対の幸福」という言葉に 大きな衝撃を受けました。
「こんな人たちのように なれたら」と固い決意をしました。
「長谷川君、必ず幸せになれるよ。あなたにしかない使命で、きっと 多くの人に 希望を与える人生を 歩めるようになるからね」との 婦人部長の 涙の激励は、今も 私の脳裏から消えません。
旧習深い 四国の片田舎で、入会1年で4人の友人に 信心をさせました。
そして生まれ故郷の 平塚に戻ってまいりました。
創価学会・音楽隊として トランペットを 奏でながら戦い、薫陶も受けました。
そして、すべてに挑戦の 人生を歩んでまいりました。
9回の転職、9回の引越し、2回の交通事故。
その内の一つは 死亡事故でした。
心身ともに狂うほど 苦しみました。
生死を危ぶまれた 2回にわたる妻の手術。
次男の精神障害、それらをすべて 乗り越えた 苦闘の人生のすべてが、今は 創価学会の凄さを語る 掛け替えのない 私の宝物になりました。
我が家も 7年前に屋上のある家を新築することが出来、広布の拠点として 活躍しています。
苦節42年、苦悩に喘ぐ友に 希望のエールを送れる 境涯になることが 出来ました。
生涯青春で広布のトップランナーとして 戦い続けてまいります。

神奈川・平塚県平塚大勝圏 長谷川 千代治



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