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Berchtesgaden

親衛隊SS特殊作戦部隊
或る中尉の手記
★加害者から視たホロコースト★



※上記の写真は、南ドイツ、オーストリア国境に近いオーバーザルツブルクの、かつてのヒトラー総統の別荘地・ベルヒテスガーデンの光景である。

総統は山々を真っ赤に染めた夕日を見て、「今度は流血は避けられないだろう!」と独ソ戦を決意したといわれる・・・・・。



(プロローグ)

◆1934年7月25日、第89SSスタンダルテの隊員たちは、ウィーンの連邦官房(オーストリア首相官邸)への道を急いでいた。

彼らは、エンゲルバート・ドルフュス首相に致命傷を負わせたにもかかわらず、クーデターに失敗した。[ドイツの隣国オーストリアでは、1934年のこの日、ナチス党員の過激派が首相官邸を襲撃し、ドルフュス首相 を暗殺。しかし、彼らの襲撃は鎮圧され、失敗に帰した。以下に触れるように首相官邸襲撃メンバーの一人だった本編の主人公であるフェリクス・ランドウも逮捕された。]


それらの逮捕者のうちのひとりに、高級家具師フェリクス・ランドウがいた。

彼は、首相官邸の職員を短機関銃の銃口で脅して手を上げさせたのであった。

ランドウは、その犯罪の共犯者であったために告発されて、ヴォラースドルフ監獄に送られた。

彼は1937年に釈放された。

彼はドイツに帰化して、刑事補佐としての地位を得た。

1938年3月12日にドイツ軍部隊がオーストリアに進駐した[ナチス・ドイツは隣国オーストリアを併合する]とき、彼は保安警察・SD(保安諜報部)のアインザッツ・コマンドのSS大尉であった。[翌年の1939年9月に、ナチス・ドイツが隣国ポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発する。]


それから、ランドウはウィーンのゲシュタポ地域本部に雇われ、ユダヤ人資産を保全するための責任を負わされた。

彼は結婚し、逃亡したユダヤ人の所有していたヴィラに移った。

1940年4月、彼はラドム(ポーランド総督領)のKdS(保安警察・SDの司令官)に任命された。

はじめ、彼はポーランド軍部隊の敗残兵との戦闘に参加するために派遣され、その後、記録事務所で働いた。

ウイーンでクーデターを試みたときの彼の役割とオーストリアで収監されていた年月が表彰され、1940年8月31日にナチスのBlutorden[「血の秩序」勲章]を与えられた。


彼は、ラドムの事務所で20歳の速記タイピストであるゲルトルーデに出会う。

ゲルトルーデは、ウィーン出身の兵士と婚約していたが、そのときには婚約を破棄したがっていた。

彼女は、ランドウと恋に落ち、彼との結婚を約束する。

その一方で、彼女は以前のフィアンセにまだ会い続けていた。

しかし、ゲルトルーデの巧みな恋の駆け引きも、ついに、ランドウの知るところとなった。

その結果、彼はゲルトルーデとの関係を清算しようと決心し、1941年6月30日に、すなわち、ソビエト連邦に対する全面的な攻撃「バルバロッサ」作戦が開始された[正確にはドイツがソ連を奇襲したのは1941年6月22日のこと]前後に、アインザッツコマンド(EK=特殊作戦中隊)に志願する。

彼の手記はこのときから始まる・・・・。



フェリクス・ランドウ手記の作者フェリクス・ランドウSS親衛隊中尉の略歴


フェリクス・ランドウの手記フェリクス・ランドウの手記(本文)


翻訳者と編集者翻訳者と編集者




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