優子・モリスさんの体験発表


優子・モリスと申します。

信心を始めて3年半で、これまでたくさん功徳をいただきましたが、今日はこの信心を始めたきっかけを含めて私の体験を話したいと思います。


私は高校卒業後アメリカに留学し、ビジネス専攻で大学を卒業。

その後は東京でイギリスの銀行に就職しました。

生まれてからそこまでは両親に大切に育てられたせいか、それほど苦労をした経験もありませんでした。

そのせいか自分のどこかで外へ出たい意識が強く、でも勇気がないので空虚さを感じていました。

それをどう埋めるのかもわからなかったし、宗教と聞いても別の世界のことのようで感心もありませんでした。

アメリカで学生をしていた頃にジョージに出会いました。

彼はお母さんが日本人、お父さんが黒人のハーフです。

90年に結婚することを決めてからの1年間は両親に大反対されて、私は意地でも結婚するといった態度で押し切ってしまいました。

両親の反対の理由は、国際結婚をして遠い国で暮らしていく事と、彼が黒人であることが最大の理由でした。

大好きな家族から反対される辛さは耐え難いものでした。

信心をしていた姉からは「感情に走って物事を決断してはいけないよ」と何度もしかられましたが、私が成田を出るときに池田先生の書かれた『女性抄』を持たせてくれました。

結婚して半年後、夫は勤めていたTV局で担当していたショーが打ち切りになり、レイオフされてしまいました。

独立してミュージック・ビデオの作成の仕事をしましたが、毎日忙しくて家で話し合う時間などなく、いつ入るかわからない収入とそれより多い経費の続出。

仕事柄派手なパーティーをしたり、私にしてみれば訳のわからない請求などでいつも不安な状態でした。

私が東京で勤めて貯めてきた分と、反対していても父が緊急の時に用立てするようにと持たせてくれた分の預金がありました。

私にとっては、金額よりも父の思いがこもっていましたからとても意味のあるお金でした。

いつか家を買うときに取って置きたかったのです。

それでも支払いのためにそこから出さざるを得なくなって、すごく悔しくなりました。

私の不満は積もる一方です。

夫婦でひとつのお財布と決めていても、こうなるとかなり許せなくなっていました。

このままの結婚生活が続くかと思うとぞっとして、よく「もしあと半年で生活が向上しないならば、私は離婚する」と、脅迫していました。

本当に苦労をしに結婚したような気がして、つくづく独身で自由に遊んでいる友達が羨ましくなり、貧乏くじを引いてしまったと後悔しました。

しかし飛び出してきた手前相談しようにもこの事で日本にいる家族へは電話できないし、苦しい、つらい、逃げたい、LAなんか大嫌い。

そんな生活が1年以上続きとうとう生活に疲れ果て気がつくと、神経性胃炎と4つの500円玉ぐらいの大きさの円形脱毛症ができていました。

自分では、若いんだしまだまだやり直せるのだから離婚した方が良いと思い、帰国してしまいました。

東京で信心している姉夫婦に相談に行くと「このままでは負け犬だよ。ただ逃げてきたらまた優子は、いつか逃げることになるよ。しっかりしなさい」と言われました。

そして、姉からこの仏法の話を聞きました。

自分ではどん底の毎日でしたのでとにかく健康を取り戻そうの一心でお題目をあげました。

少しずつ落ち着いていき、愚痴を言っていた自分を反省しました。

今までの思っていた『幸せ』と言う言葉の意味が私の場合、環境に求めすぎていて相対的であったことに気付きました。

題目をあげていて、初めて鏡をみるように自分を見つめたような気持ちになりました。

それから5ヶ月後。

最後までこの日にいただけるかどうかが検討されて、ぎりぎりまでわかりませんでしたが姉夫婦の祈りに支えられ、1993年11月3日・第2回目の日寛聖人の本尊授与式で、ご本尊様をいただくことができました。

当日は婦人部の方々が知り合って間もないにもかかわらず私のために、3駅分ぐらいの距離を自転車で駆けつけてくれました。

大きな会場にあるご本尊様を前に勤行したとき「私の大切な命なんだ、大切な人生なんだ」という喜びが全身を走ったような気がして、涙と感動で顔がぐしゃぐしゃになりながらご本尊様をいただきました。

あの時は、ウェディングドレスを着て大きな教会で結婚式を挙げたときより何百倍も感動しました。

誰に会っても、地区のみなさんから「おめでとう。使命があるのよー」と言われました。

その後『使命』ってどんな字を書くのか、どんな意味があるのか調べたのをおもいだします。

姉からは「もうご本尊様と一緒なんだから、何があってもこの信心から離れずに、祈りに祈って自信を持って生きていって欲しい。

とにかくLAに帰って彼とよく話しをしなさい」と言われ、1年後にまた姉に報告に来るようにと帰りの飛行機代を渡されました。

そして私は、覚悟をしてLAに戻ってきました。

ところが帰ってまもなく、毎月送られてくるはずの銀行の明細が届かなかったので、銀行へ行ってみるとまだ残っていたはずの預金が全部無断で引き出されていたのです。

目の前が真っ暗になる思いでした。

もう夫のことなんて信頼できないと思い、また弱気になり離婚するしかないと姉に電話すると「よかったねー。感謝しなくちゃねー。優子が題目一生懸命あげているからどんどん悪いものが出て来ちゃっているのよ、出しきっちゃいなさい。慌てなくても結果は絶対に出るわよ。とにかく1年したら報告に来ればいいのだから、このまんま頑張りなさい」と言うのです。

今思うとすごい激励だったなーと思うし、その事を言った姉の方は本当に、もっともっと強い題目を送ってくれていたような気がします。

私は腹を決め「絶対負けない」と自分に約束しました。

しばらくの間は、時々悔しくなって夫を殴りたいと思ったこともありました。

でもある晩。題目をあげていてスーっと楽になったのです。

「ジョージにも幸せになって欲しい、許してあげよう。ご本尊様、ここで私がすべての状況を受け止めます。ゼロから出発します」と誓いました。

決意をした時に勇気がどこからともなく湧いてきました。

夫は、私がカルトグループの会合に行ってるのではないかと心配して、何度も一緒にミーティングに出席していましたが、94年の新年勤行会で夫は感激して信心をすると言い出しました。

Major Writing(御書) を読むのが日課になり、一緒に勤行、題目、学会活動ができるようなリズムが整いました。

ちょうど車が1台しかなかったので活動へも殆ど一緒に参加することができました。

サンタモニカの女子部でADキャンペーンも兼ねて毎月1回、10時間唱題をすると聞いてびっくりしました。

最後までできるかどうか挑戦だと思い参加してみたところ、やり遂げることができ、その後5回ぐらい参加したと思います。

題目ってすごいなーと思いました。

どんな小さい事でも自分で決意したことをやり抜いていくことが自信につながりました。

私の場合、学会についてたくさんの人々に出会い、勉強し、体験談を聞かせていただくことが、自分の凝り固まっている視野を広げられることにつながりました。

ひとりだけでお題目と勤行をして職場と家の行ったり来たりだけでは、今の私にはなれなかったと思います。

私達の生活も変わり、夫は94年の8月に大手映画配給会社のホームビデオ部門へ、私はXX火災へ就職し、現在もずっと頑張っています。

以前の彼の仕事は、スターを囲んでのいわゆる現場の仕事で、その頃は絶対スーツを着ていく仕事なんかいやだと言っていましたが、人間変われば変わるものできちんと背広スタイルで仕事へ言っています。

昨年10月には、家を購入することができ、折伏してくれた姉夫婦にも遊びに来てもらいました。

それから夫と私は前よりもいい友達でかつ協力し合える夫婦になってきました。

信心する前の私はすぐ逃げ腰になり、物事を何でも考えすぎで臆病でした。

今は挑戦するのが好きになり、ご本尊様に祈ってからじっくり構えて実行するようになりました。

厳しい環境を与えられて初めて絶対的幸福の意味を学ばせてもらいました。

夫は、たくさんの問題を最初に投げかけてくれる役になったけれど、彼がいなかったらこんなにいい勉強をさせてもらえなかったと思います。

SGIには人種を越えた人と人とのふれあいがあります。

それは、私達にたくさんの希望を与えてくれました。

同じ悩みを持つカップルへ私達夫婦の体験を通し、希望を持たせてあげられることが私達2人の使命だと思い、これからも頑張って行く決意です。


SGI-USA/優子・モリス



*人物の名前はご本人の希望により一部変えています。



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