奇跡的な回復

〔より良い人生への祈り〕


29年間日蓮大聖人の仏法を信心したシンガポール創価学会壮年部員タン・ドウヨクは、帰宅途中にバスにはねられ重傷を負いました。
例え回復しても心身に高度の障害が残る可能性がありましたが、タン氏の家族はあきらめることなく、回復を祈って日夜唱題に臨みました。
厳しい試練ではありましたが、諸天善神の加護を得て、終にタン氏本人は事故後42日目にして退院しました。
彼は家族と共に旧正月を祝うこともでき、つい最近の2011年2月7日、体験談をも分かち合うことができました。
タン氏の体験談のブログは、彼の長女メイビラインによって寄稿されました。
彼女は、日蓮仏法を信心する両親の間に生まれた二世です。
メイビラインは、彼女の両親が経験した苦難と信仰の日々を語っています。


2010年12月15日、私の父タン・ドウヨクは、帰宅途中にSBSバスにはねられました。
事故は、自宅の向かい側にあるユーノス地下鉄インターチェンジのバス出入口で起こりました。
近所で店舗を営む母は、救急車と事故車両を目撃してはいましたが、まさか父がその事故に巻き込まれていたとは知りませんでした。
私たちが父の事故を知ったのは、19時40分、病院からの連絡によってでした。
その日は会合があったので、参加する前に夕食を済ませようと、母の父の電話への着信に病院が気づいたのです。
病院は父をCTスキャンで検査し、その結果、頭骸骨が粉砕骨折していました。
通常の常態では、それはお月様のように円形に映ります。
CTスキャンで映した父の頭蓋骨は、二つに粉砕されて映っていました。
脳内出血(脳の内部と外部)と血液の凝固が見られました。
救急病院の集中治療室(ICU)の医師は、私たちに最悪のケースを宣告しました。
私達姉妹は泣き叫びました。
母は、皆の中心となって父の生還を祈りました。
私たちは、父がこの世での広宣流布の使命を果たし切っていないと信じていました。
私たちは病院で一晩中題目をあげ、ありがたいことに同志の皆さんも父の回復を祈って題目を送ってくれました。
父の事故は、80周年記念幹部会の10日前に起こりました。
このような難が起こったので、母は私たちに、きっと歴史的な80周年記念幹部会に参加できるよ、と諭してくれました。
なぜならば、父の事故は幹部会への参加を妨げようとする魔の働きだからです。
事故が起こった最初の夜、私たちは病院で題目をあげました。
母と私、それに妹の3人は交代で、一晩中唱題をしました。
母と妹が眠っている私の唱題の番のとき、私は独り取り乱して、お守りご本尊様の前で泣いてしまいました。
私は、ご本尊様を疑ったことなどありません。
でも、集中治療室で点滴や注射器、治療機器に繋がれた父を観ていると、胸が引き裂かれる想いでした。
私たちは集中治療室の外のロビーで待機していましたが、エレベーターが階に止まるたびに、「もう治ったから皆と一緒に家に帰ろう」と、父がこちらに向かって歩いてくる幻を見ました。
悲しみにくれて題目をあげているときに、度々そのような幻想を感じました。
母は、池田先生が教えてくださったように、全ての事には必ず理由があり、この難を勝ち越えることによって、父は必ず宿業転換でき、我家の宿命も使命に転換できるのだと、私たちに繰り返し語ってくれました。
これまでに経験したことがなかったことなので、私たちはこの状況をすぐには受け入れることができなかったのです。
翌朝、医師による回診後、神経外科医が頭蓋骨粉砕骨折と脳へのダメージについての全てを話してくれました。
同時に、医師は父の脊髄をスキャンしたこと、及びその診断結果を待っていることを私たちにあかしてくれました。
父の回復を祈念するという明確な家族の祈りに、諸天善神は応えてくれます。
医師は、もし父の脳圧が25以上に膨れ上がったら、リスクを伴う脳外科手術に踏み切らざるを得ないと伝えました。
私たちは、父の脳圧が標準レベルの15以下になること、脳の腫れも収まり血圧も140-160以内に落ち着くことなどを目標として唱題しました。
医師もまた、父の頭骸骨がひどく破損しているので、手術は行わずに、薬物治療と鎮静剤の投与により、経過を観察したほうが良いだろうと言いました。
父の頭骸骨の様子は、まるでバラバラにしたジグソーパズルのようでした。
そんな時、少しだけ良いニュースも私たちにもたらされました。
父の頭骸骨はひどく破損していたので、医師はリスクを伴う脳外科手術を断念したのです。
父が運び込まれた病院には、脳外科手術の設備がなく、それもまた不幸中の幸いでした。
父の脊髄については、検査の結果、異常はありませんでした。
あのような事故にもかかわらず、他の主要な臓器にも異常なしでした。
まさに諸天善神の加護でした。
父が頭を強打したとき、肩から提げていたバッグが、事故から父の脊髄を守ったのです。
スキャンを観ていた母も、父のそのバッグが大きな役割を果たしたと言いました。
父のバッグの中には、御書学資料、SSAタイムス(シンガポール創価学会機関紙)、クリエイティブ・ライフ(シンガポール創価学会月刊誌)などが入っていたのです。
母は言いました。
父はいつも広宣流布のために活動していたので、そのバッグが諸天の守りとなったのだと。
父の脊髄が無傷であったことは、父の回復を祈る私たちに希望を与えました。
時には、父のひどく膨れた顔を見て、くすくす笑いあえるような余裕さえ生まれました。
看護師は、父の顔が腫れているのは薬の影響だと言いましたが、私たちは、きっと同志の皆様の題目が父の頭に届いて、それで腫れあがっているんだと感じました。
父の入院する病院の至る所に、諸天善神はいました。
看護師、病院職員、医師、それに同志の皆様が諸天の働きとなって、私たちをサポートし、世話をしてくれたのです。
約一週間、私たちは病院で題目をあげ、寝袋と毛布を持参して、そこで寝泊りをしました。
当時の私たち家族の気分は、父の血圧・脳圧・体温のように、まるでジェットコースターにでも乗っているかのように上下に揺れていました。
父の体温は絶えず39度の高熱が続いていました。
時々は、平熱に落ち着いたりもしましたが、高熱に戻ると、また皆で必死に唱題しました。
父は時折、目を開けて、かすかに手足を動かしましたが、またすぐに目を閉じました。
始めのうち、私たちは父が無意識なのだ思っていましたが、看護師は父が意思を伝えようとしているのだと言いました。
その他にも、何らかの父の意思表示はあったのです。
私たちは、昼間は病院内の人の流れが多く唱題に打ち込めなかったのですが、夜は夜で、看病のため疲労困憊していました。
2010年12月20日、母は題目も大事、休息も大事よと言いました。
それもまた、ある意味で転換点でした。
その夜、母は、早期の回復のため、脳神経外科があるタン・ドク・ソング国立神経科学研究所へ、父を転院させようと思いつきました。
しかしながら、それは父の容態にとって安全なことなのか熟慮しなければなりません。
私たちは、脳神経外科についての知識や助言できる人もいませんでした。
知識と経験を備えた医師や看護師が現れるように私たちは祈りました。
私たちは、自宅で、夜を徹して交代で題目をあげました。
次の日、休暇から戻った一流の脳神経外科医が一時的に、次席の脳神経外科医に代わって診断すると知りました。
その医師は、主治医よりも老練で知識も豊富であり、父の容態についてセカンド・オピニオンを与えてくれました。
医師は、父の頭骸骨骨折の範囲と脳圧の復元力から見て、父を重篤な危険が及ぶ手術台よりは、集中治療室で経緯を観察し続ける方が良いだろうと言いました。
私たちの祈りに実証が現れ始めたのです。
医師はまた、父が自力で呼吸をするために意識を回復するように、人工呼吸器を取り外してみようと言いました。
その他、口で呼吸をする代わりに、気管支を切開して呼吸チューブを肺へつなぐ手術を、2010年12月22日に行いました。
父は、しばしば口の中の呼吸チューブを外そうともがき、血圧が200近くまで上がったのです。
私たちは、父が手術をしなくても自力で呼吸ができるように、必死で題目をあげました。
人口呼吸器の取り外しはうまくいかず、医師は母に気管支切開手術の承諾書へのサインを求めました。
私たちは引き続き昼夜に亘って唱題をあげ、私は唱題会や波動(ウエーブ)ミーティング(シンガポール創価学会キャンペーン)に参加しました。
80周年記念幹部会の為の唱題会に参加した時、私が未来部に所属していたときに世話してくれた婦人部が、彼女の経験語ってくれ、そして私に言いました。
「広宣流布したい? もしそうなら、あなたのお父さんはきっと回復するわよ!」
その夜、病院に戻ったとき、母は手術室で働く同志に逢いました。
彼女はちょうど仕事を終えたばかりで、彼女に気管支切開手術について聞くと、言語能力に影響を及ぼすだろうとのことでした。
私たちの題目は、更に強くなっていきました。
それは必死の題目であり、実証を示す闘いへの題目でした。
父が意識を回復し、気管支切開手術をしなくても済むようにと祈りました。
仏法対話をし、多くの人々を励ますための御書講義をするためにも、父には声が必要なのです。
闘いの最中、私はこのご指導に出会いました。
「日蓮大聖人の御生涯において、臆病な弟子は信心から遠ざかり、しかも師敵対した。
なんと哀れで卑劣なことか!?
もし私たちが同じようなことをしたら、それは敗北である。
私たちがこの世に生を受けたのは、広宣流布を達成し、無量の功徳を受けるためである。」

2010年12月23日、私が集中治療室で父の傍にいた時、父は目を開けました。
私は妹を呼び、母に知らせました。
私たちは皆で泣きました。
父は5分もの間、目を開けていたのです。
シンガポール創価学会のオウ・クンヤム副理事長がやって来て父に話しかけると、父は彼を見つめました。
私たちは、父の意識が戻ったのだと思いました。
後で医師は、父はもはや人工呼吸器に余り頼っていないようだと言いました。
しかしながら、午後に父の手術が行われました。
痰を除去するための、チューブの一つを取り外す手術が行われたことには、きっと何らかの深い意味があるのだと信じていました。
父の気管を貫く、口の中のチューブが外されないままでいたら、集中治療室の他の患者のように、父の肺は炎症を起こして、他の主要な臓器にも悪影響を及ぼしていたでしょう。
手術後、チューブの位置をチェックするために撮った父の胸部レントゲン写真を観た医師は、父の肺の中に水が溜まっており、肋骨が骨折しているのを見つけました。
それは、肺への炎症をもたらすもので、手術しなければ発見できなかったのです。
そのような重大な事項が判明できたのも、題目と明確な祈りと忍耐の結果であり、私たちは実証を示せたのです。
その時点では、たとえ父が目を開けたとしても、それは数分間であり、簡単な問いかけにも答えることができなかったので、父が意識を取り戻したかどうかは何とも言えなかったのです。
2010年12月25日、80周年記念の朝、医師と看護師は、父が意識を回復したことを確認し、私たち家族に向かって大きくうなずきました。
私たちは、父が80周年記念祝賀行事と同時に勝利したのを見届けました。
二日後、父は集中治療室から高度治療棟へ移されました。
その日の朝、集中治療室の医師の一人は、父の回復の早さに驚き、同じく看護師達も、早期に父を回復させた、題目の力を感じたと話してくれました。
看護師長は、本当に奇跡だと言いました。
2010年12月30日、父は一般病棟に移されました。
それは、父が完全に危険な状況を脱したことを意味します。
2011年1月7日、気管支に繋がれていたチューブが外されたまさにその夜、父が勤行をしているのを目撃しました。
2011年1月8日、父は30分間題目をあげました。
父は母に、題目をあげた後に、二つの富士山が脳裏に浮かんだと言いました。
そして、2011年1月26日、事故から42日後、父はついに退院し、家族と一緒に旧正月を祝うことができました。
医師は、植物人間になるか、身体能力のいずれかを失ってもおかしくない状況であると言っていましたが、父の声帯には全く何の影響もなく、普通の人と同じように、2011年2月7日、皆の前で体験発表ができるまでになりました。
体力を回復する時間が必要であったのですが、祈りと題目とで、父はメンバーを励ましに出かけるようになれると強く確信しています。
大きな難に遭いはしましたが、父は生きており、実証を示しています。

終わり。




前のページに戻る。



All Rights Reserved,Copyright(C)Y.B,2011

Nr.20111018Y0002