シンガポール創価学会(SSA)壮年部体験談集「突破」シリーズ6

苦難から立ち上がる

セラグーン北支部
リチャード・リー・コックソングB長


「一時間、真剣に題目をあげてみました。
すると、精神が研ぎ澄まされて、自分の身体の内側から力が漲(みなぎ)ってくるのを感じたのです。
そのときに私は悟りました。
これこそが、私が求めていた信仰なのだと。」



「経済苦と闘う壮年部員に、戸田先生はかつて語られた。
『君は今、損失を蒙ったようだが、確固たる信心で耐えるならば、断じてその損失は10倍20倍となって取り戻すことができるのだよ。
これは変毒為薬の仏法の法理だ。』
不動の信心を貫くことが、勝利を得る決定打となるのだ。
また、戸田先生は確信を以って断言された。
『凡夫は過去の出来事だけを見るが、仏の智慧は将来を見ることができる。
それ故、何が起ころうとも、ひたむきに妙法を信じ、困難と闘うのだ。』
(SGI会長 池田大作)


私たちの人生に於いて最も重要な事は、最終的には、それが達成感と勝利に満ちたものであったか否かだと思います。
日蓮仏法を信心する前は、私は、後先も考えずに好き勝手なことをする、手に負えない強情な人間でした。

1980年の初頭、私は営業部長として梱包用資材製造会社で働いていました。
仕事は順調で、生活もうまくいっていました。
私の生活は、仕事と酒と金を中心に回転していました。
この生活が永遠に続くものであると、当時の私は思っていました。

諺(ことわざ)にもあるように、よい時期は長くは続きませんでした。
会社は、深刻な不景気に因り大打撃を受け、1983年、私はリストラされてしまったのです。
同じ業種での仕事を探そうとしたのですがかなり難しく、その年、海運業者に電気ケーブルを提供する自営業を始めました。

しかしながら、私の経験不足に因り、経営は想像以上に難しく、私は自身喪失に陥ってしまいました。
私の展開する事業は、高度に資本集約的なものでした。
更に悪いことには、融資を受けていた金融会社が、内緒で金利を引き上げたのです。
やがて、事業は赤字となってしまいました。
回転資金の為に、私は友人たちからの借金に頼り、やがてそれは習慣となってしまいました。
(資本集約的:大きな資本を必要とする)

1985年、私は結婚しました。
私たち夫婦は、1986年に長女のフェリシア、1988年に長男のフェリックスをそれぞれ儲けました。
その頃、私の事業は失敗し、多額の負債に追われることとなってしまいました。
負債は、銀行や友人、それにサラ金などからです。
最初は、8万円ぐらいだった負債が雪だるま式に増え、あっという間に400万円まで膨らんでいました。

1991年、親友のロン・タンが、私の逆境を聞きつけて駆けつけて来てくれました。
彼は私に、日蓮仏法の信心を薦めてくれ、何冊かの書籍を与えてくれました。
多くのトラブルに苦しめられて常軌を逸していた私は、読書をする気にもなれず、それらの書籍を自家用車の中に保管していました。
後に、緊急の現金が必要だったので、私は書籍が保管されたままの車を売却してしまったのです。

かつての華やかな生活は、突然に消え去りました。
その後の私を待っていたのは、先の見えない生活と精神的な苦悩でした。
ほとんど毎日といっていいほど、銀行やサラ金から追い込みをかけられました。
返済する金など、全くなかったのです。

やけになった私は、あらゆる宗教に手を出しましたが、何の解決や気休めにもなりませんでした。
そんな私を見ると、妻は怒りを爆発させました。
その時から妻は、絶えず不機嫌状態となりました。
どんなに話し合っても、彼女をなだめることはできず、夫婦関係は悪化していきました。
家計の負担を軽減するため、私は住居を人に貸し、子供たちは母宅に預けました。

一年後、創価学会テロック・ブランガー会館へ私を招いてくれた友人から、電話がありました。
彼は、私の生活環境を変えるためにも、御本尊様へ祈ることを強く薦めました。
そのとき私は、これは数年前に友人のロンが薦めてくれた仏法だと思い出しました。
私はロンと連絡を取り、日蓮仏法を信心してみたい旨を告げました。
躊躇することなく、その夜、彼は私を唱題会に連れて行ってくれました。
そうして、一時間、真剣に題目をあげてみました。
すると、精神が研ぎ澄まされて、自分の身体の内側から力が漲(みなぎ)ってくるのを感じたのです。
そのときに私は悟りました。
これこそが、私が求めていた信仰なのだと。
その日から毎日、私は、新しい信仰を始めたんだと言っては、母の家で8時間から10時間の題目をあげたのです。
私の話に耳を傾けていたロンは、シンガポール創価学会の活動について語ってくれ、私は熱心に会合に参加したのでした。


但し大難来りなば強盛の信心弥弥悦びをなすべし。
(椎地四郎殿御書 p.1448)


私は全力を挙げて、経済苦を乗り越えるための奮闘を続けていました。
銀行やサラ金からの追い込みは、更に激しさを増していました。
特に、サラ金業者に因る厳しい取立ては、大きなストレスを家族や隣人に与えました。
題目に拠って得た智慧で、私は警察に相談しました。
警察は、2時間に一回、住居の周りをパトロールしてくれました。
すると徐々に、サラ金業者は家に寄り付かなくなりました。
そうとは言え、呑気に構えている暇などなかったので、私は強い決意で日に12時間の題目を挙げました。

私には、金銭的に援助してくれる母や身内がいてくれて幸運でした。
その上、私のところに取り立てにやってきたサラ金業者のうちの一人は、私の協力者になってくれました。
私を哀れんだ彼は、私が支払うべき負債について、私と15のサラ金御者との間に立って、示談交渉を買って出てくれたのです。
私は幸運など信じられませんでしたが、それがたくさん題目を挙げた功徳であると認識しました。

しかしながら、1989年、母は私に、母宅からの立ち退きを命令し、私や家族を追い出しました。
母は、母宅に家族を居候させながら、私は自分の家を他人に貸して家賃を得ていたので、私が利己主義だと感じていたのです。
無理もありません。
私は、私たち家族に対する母の思いやりや、金銭的な支援の増加に対する配慮に欠けていたのです。

悪いことは続くもので、私は自宅を又貸(またがし)している入居者から、住宅開発局の幹部職員が居住地域を巡回しているという知らせを受けました。
住居を又貸していることがばれると、又貸禁止違反の罪で、退去命令を受けるか、高額の罰金が課される恐れがあります。
私は家族を説得して、その日の夜は、一旦自分たちの家に戻ることにしました。
果たして、幹部職員が次の日の朝、我家にやって来ました。
尋問を受け窮地に陥ることが予期されましたが、ほっとしたことに、彼は調査報告書を作成し、私たち家族が住んでいるという証拠写真を撮っただけで、納得して帰りました。
今となっては、母が私たち家族を母宅から追い出したのは、不幸中の幸いとなったのでした。
そうして、諸天の守りがなかったら、帰るべき家をも失っていたでしょう。
この体験は、御本尊様への信心を更に強め、私は日々感謝の題目をあげました。

この危機を乗り越えて、私の人生はうまくいったじゃないかと、人は思うかも知れません。
しかし、これで私の宿業は消えたのでしょうか?
いいえ、宿業はそれだけではありませんでした。
自身の宿命転換のために奮闘している間、私は、妻が度々マージャンに出掛け、深夜に帰宅するのに気がつきました。
1992年の5月、妻の誕生日の前夜、いつものように外出した彼女は、午前0時を回っても帰ってきませんでした。
そんなことは以前にはなかったので、私はとても心配しました。

3週間後、再度、私の信心が試されるときがやって来ました。
妻の気性が急に激しくなり、包丁を振り回して私を脅すようになったのです。
2週間後、妻はメイドを伴って家を出て行きました。
家に残されたのは、私と子供たち、それに財布の中の2千円のみでした。

1999年、妻の委任した弁護士から、離婚と子供たちの親権を求める文書が届きました。
私は必死に題目をあげ、そうして子供たちと話し合いました。
子供たちは皆、私との生活に同意し、そんな彼等の意思表示を、家庭裁判所の判事に書き送りました。
子供たちの気持ちに感動した私は、10時間の題目をあげて、家庭裁判所の審理に臨みました。
その結果、裁判官は、私に子供たちの親権を与える旨の判決を下しました。
また裁判官は、妻へ養育費を請求するようにと指示してくれましたが、私は固辞しました。

私は希望を失わずに、池田先生のご指導と日蓮大聖人の御書を学び続けました。
次の重要な目標は、早期に仕事を見つけることでした。
1999年、昔の同僚の助けで、私はセールスマンとしての仕事にありつきました。


ただ世間の留難来るとも・とりあえ給うべからず、賢人・聖人も此の事はのがれず。
(四条金吾殿御返事 p.1143)


子供たちの養育に関しては、私はとても幸運でした。
というのも、地区の婦人部員の方が、私が早朝から働かねばならない時など、私に代わって子供たちの面倒を看てくれたのです。
夜に帰宅してからは、母親代わりとなった私が、食事の準備や洗濯などの家事をこなすのです。
子供の世話は大変でしたが、彼等の幸せのための奮闘と心遣いは報われます。
私は、子供たちと固い絆を結ぶことができ、互いに善き友となりました。
彼等はとても熱心に勉強しましたが、学習は進んではいませんでした。
長男のフェリックスが中学4年になったとき、彼は学校をずる休みするようになり、担任の教師からも度々、無断で下校したという連絡を受けました。
それからというもの、長男は帰宅が遅くなりました。
そんな長男の行動に困惑した私は、日々の勤行唱題も怠ってしまいました。
この窮地を脱しようと、私は猛烈に題目をあげ、それまでの父親としての怠慢を反省しました。

ついに長男のフェリックスは私に心を開き、学校に行くのが面倒くさかったのだと認めました。
私は、そんな彼を叱る代わりに、中等学校終了試験準備期間中もずっと応援するよ、と励ましました。
ほっとしたことに、長男は再び一生懸命に勉強を始め、大学入学資格という良い結果を得ました。
しかしながら、数年間、勉強した結果、より実用的な学問を身に付けたいと感じた彼は、義安理工学院へ進路変更しました。
私は、心から彼を応援しました。
なぜならば、彼はそこでの勉強を楽しみ、より幸福な人間になれることが分かっていたからです。

長女のフェリシアのことですが、彼女は、興味を持っていたシンガポール経営管理大学での勉強を熱望していましたが、試験の結果は振るいませんでした。
しかしながら、一緒に御本尊様に向かって真剣に祈った結果、同大学での望んでいた学部に合格しました。
そこでの3年間、彼女は一生懸命勉強し、ついに優秀学生トップ200の一人に選ばれ表彰されたのです。
2008年に卒業してからも、不景気に因り就職状況は厳しかったのですが、卒業後2週間で、何とか苦労はしましたが、長女は銀行での仕事を獲得しました。
全ては、広宣流布の活動によって得た功徳です。

この16年間、多くの苦難に見舞われましたが、私はとても幸福でした。
というのも、同じような苦難に直面している人々に、いかに私がそれらを乗り越えてきたのかを語ることができるからで す。
私の宿業は、私の人生を向上させると共に、他の人々に希望を与えることに役立ったのだと思います。

ライオンが吼えるような力強い題目をあげれば、日蓮大聖人が遭われたような厳しい冬でさえも、必ず春になるのです。

池田先生は指導して下さいました。
「日蓮大聖人の仏法を信心するということは、いつも人生が安泰であるということではない。
人生には浮き沈みがあり、挑戦と苦難の連続である。
私たちは、苦難や困窮、また悲哀に遭遇する覚悟をしなければならない。
そのときには、全力を尽くして題目をあげるべきだ。
そうすれば、大聖人の教えに照らし合わせて、それらの苦難を乗り越えていけることは間違いない。
私たちは生涯をつうじて、この過程を繰り返すことにより、人間革命が達成でき、絶対的幸福の境涯に至るのだ。
それが信心の道である。
たとえ何が起ころうとも、信心から離れてはならない。」

私は、いつもこのご指導を座右の銘とし、自分自身を広宣流布の活動へと駆り立てています。
私は、地区の同志や、私の子供たちが幸福をつかめるように祈り育ててまいります。


おわり。





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