シンガポール創価学会(SSA)壮年部体験談集「突破」シリーズ3

数々の病魔を乗り越えて

ニュートン支部
キ・ホンファ副支部長


私は決意しました!
南無妙法蓮華経という究極の真理で、私の人生の方向転換をしようと。
大声で5分間題目をあげてみました・・・忘れかけていた強い感動を覚えました。
そして私は衝撃を受けました。
それは、まるで長年に亘って私を苦しめていた、肩の重荷が取り去られたようでした。
その経験は、私の人生に於ける最も素晴らしい出来事となりました。



「人生の途上に於いて、例え如何なる事が起こっても、私たちは究極の勝利を確信できる。
何故ならば、毒薬変じて薬となる、妙法の功力(くりき)があるからだ。
そうして、悩まし苦痛を与える、どのような苦難や病魔が競い起こっても、最後には勝利できるのだ。
必ず勝利者となることができる。
これが、大聖人の仏法の根幹であり、仏道修行の目的でもある。」
池田大作


青春時代の私にとって、何かの宗教を信仰するということは、さほど重要なことではありませんでした。
そんな私にとって、南無妙法蓮華経と唱えることなど似合わないことでした。
病気がちであったときでさえ、題目を唱えることなどなかったのです。
病院での治療だけが、健康な身体を取り戻すための唯一の道であると思っていたのです。
しかし、私は間違っていました。
幸運にも、妻が私に、日蓮仏法が病弱という足枷(あしかせ)から私を解き放してくれるのだと諭してくれたのです。


南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはりをなすべきや。
(経王殿御返事 p.1124)


私の心臓疾患の経緯は、1972年に兵役に就いた頃に遡ります。
当時、耐え難い胸の痛みや、心臓発作のような症状に、度々襲われていました。
診断の結果、医師は私に、先天的な心臓障害である、先天性二尖大動脈弁疾患であると診断しました。
健常者なら、動脈弁に三つの弁尖や心臓弁があるのですが、私には二つしかなかったのです。
これは、大動脈起始部の動脈瘤性拡張や血管障害などの症状を併発させます。
通常の血管のサイズは1.4-1.8ミリですが、私のものは6.2ミリもあり、18年以上もこの状態で過ごしてきたのです。
動脈は、心臓から身体の末端まで血液を運ぶ大きな組織です。
この症状を治療するために、少し治療が必要だと、私は告げられました。

暫くしてまた、同じ症状が再発し、私は再入院しました。
数年もの間、私はまるで病院が自宅であるかのような生活を強いられました。
1979年に結婚しましたが、私は健康というものと縁遠い存在でした。

私は時折、人生に於ける障害というものは、試練のようなものだと思っていました。
しかし、人は間断なき試練の嵐に立ち向かうとき、人生というものが生易しいものではないと気づくものです。

3年後の1981年、腎不全と診断されたとき、私の人生は新たな困難に向き合いました。
血尿が出て、その後、尿は黒く濁っていました。
この症状のため、数ヶ月入院する羽目となりました。
症状が幾分安定した後も、不適切な食事をした後の尿が濁るので、厳しい食事療法を強いられました。

1985年、妻が彼女の同僚の勧めで、初めて南無妙法蓮華経を唱え始めました。
毎日、東に向かって正座し、私の健康を祈って題目をあげていました。
私は妻の気持ちを理解し、母にも妻の信仰を黙認するようにさせました。
身体の具合が悪化したとき、年配の心臓外科医が心臓切開手術を薦めてきました。
入退院の繰り返しに疲れていた私は、彼の提案を喜んで受け入れました。
実のことを言うと、もう一度、健常者のような健康な生活がしたくて堪(たま)らなく、やけくそになっていたのです。
妻が必死に題目をあげているのが、私の症状を悪化させているじゃないと変な猜疑心も生じてしまい、どうにでもなれという気持ちでもありました。
抑えていた癇癪(かんしゃく)を破裂させた私は、妻にやり場のない怒りをぶつけ、満たされない心の不満を訴えたのです。
そんな私に妻は何も言わず、ただ粛々と題目をあげ続けていました。
私の心臓切開手術の日まで、あと僅か一週間たらずだったからです。

手術の前夜、予期せぬことが起こりました。
手術前に必要な検査の後、心臓外科医と主治医が私のところにやって来て,手術が中止になったので帰宅してもよい、と告げたのです。
そうして、他の検査の為に、次の週には病院に戻ることとなりました。
私はとても不安になりました。
血液の循環が少し改善された以外は、何ら以前と変わらぬ症状であったからです。
私は精神的なストレスを感じましたが、医師からはそのような状況を避けるようにとも言われていたのです。

手術の中止という私の話を聞いた妻は、それは御本尊の功徳の現われだと大いに喜びました。
後に妻は、必死に題目をあげていたので、妙法の実証が現れたのだろうと、私に打ち明けてくれました。

しかしながら、私たちの喜びはつかの間でした。
その日の深夜、あたかもそれが私の宿命でもあったかのように、再入院することとなってしまったのです。
今度は心臓ではなく、尿がまた濁り始めたのです。
私は6週間の入院を余儀なくされました。

その年の6月に、職場復帰を果たしましたが、それは私を落胆させることとなりました。
というのも、1986年度中期の経済停滞に因り、私は余剰人員とされてしまったのです。
失業率が上昇しているときでもありました。
自宅で療養するには好都合じゃないかと、私は無理やり、自分に言い聞かせました。
しかしながら、それから一週間も経ずして、私は以前にも増して落胆し、意気消沈してしまったのです。
私は心臓が重苦しく感じられ、頭の中が混乱しました。
仕事を失ったら、この先どうして妻や子供を養っていけばいいのでしょうか。
息子はまだ3歳になったばかりです。
このような状況下の生活では、精神的な負担は更に重くなってゆきました。

そんなある日、あたかもそれが私の運命でもあったかのように、私は一大決心をしました。
例えどんなことが起ころうとも、私は人生の方向性を転換しようと誓ったのです。
そのための具体的な方策は、何もありませんでした。
もちろん、南無妙法蓮華経の意味も知らなかったのですが、私は大声で約5分間、唱題に挑戦してみました。
すると、言葉では言い尽くせない衝撃が、私の身体を走りぬけました。
それは、まるで長年に亘って私を苦しめていた、肩の重荷が取り去られたようでした。
それまでの人生を振り返り、あの時の経験は、私の人生に於ける最も素晴らしい瞬間となり、妻にとっても至福の瞬間となりました。

そのときから、私は日蓮大聖人の教えに惹かれ、妻と二人で会合に出席したり、様々な広宣流布の活動への参加を始めました。
日蓮仏法への信心は、私たち自身の境涯を高めただけでなく、私たち夫婦を周りの友人達への弘教にと駆り立てました。

信心を続けることにより、やがて私は仕事も見つけ、生活も安定してきました。
1987年6月11日、御本尊様を頂き、我家に御安置しました。
それ以降、御本尊様が我家の中心となりました。
1989年には、私はグループ長の就任を請われました。
御本尊様への報恩感謝の証として、喜んでその任命を受けました。
後の2002年には、より責任の重い地区部長の任命をも受けました。
以降、私は、如何なる時も、広宣流布の活動を最優先としました。

私の心臓や腎臓障害(腎結石症)の症状は、安定はしてはいましたが、いつ何が起こってもおかしくはない、危険な状況であることには変わりありませんでした。
事実、主治医は、私が長期に亘って持ちこたえているのが理解できないようでした。
病院内で所定の検査から戻ってくると、いつも主治医は驚いて私に言いました。
「すごい! いい調子ですよ!」
私は心の底から、全ては御本尊様のご加護の賜物であると感謝するのでした。
御書に有名な一節があります。
「南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはりをなすべきや。」
(経王殿御返事 1124ページ)

2003年、主治医は、大動脈の膨れた部分(大動脈起始部の動脈瘤性拡張)の修復手術を私に勧めてきました。
手術は、8時間を越える長時間に及ぶとの事でした。
主治医は、手術に伴う心臓麻痺、心臓停止、出血多量などのリスクの可能性について、私に告知しました。

私は、執刀医の手術が成功するように、たくさんの題目をあげて、手術に対する不安に打ち勝ちました。
実際に、私の祈りに実証が現れ、手術は成功しました。
手術後、心臓の水貯留や血中酸素欠乏症など弱冠の合併症があったのですが、主治医はそれらに対する適切な処置も行うことができました。
主治医は私にとって、最悪の時に助け舟を出す、諸天善神の働きをしました。

入院してから15日後、私はついに退院できました。
帰宅後一週間以内に、私は広宣流布の活動を再開させました。
大手術の後、僅か短期間で動き回れるように回復できたのは、本当に信じられないことです。
これは題目の力のお陰です。
全ての学会活動をやり切ることによって、私は強い生命力を証明できたのです。
こんなに早く回復できたのは、御本尊様のお力であり、信心で積み上げた功徳のお陰であると思っています。
池田先生は教えてくださいました。
「信心に無駄はない。
負けることはない。
全ての慈悲の行動と、弘教への取り組みが、人生に於ける量りしれない功徳を積み重ねているのだと、確信を持って頂きたい。
それが、目に見えない功徳となって現れるのだ。」

心臓の手術から一年後、私は背中にできた大きな脂肪腫(良性腫瘍)の摘出手術を受けました。
それからは、通風、糖尿病、腎結石症、緑内障といった他の病気があらわれてきました。
私の宿業の嵐は、このような病魔の形でやってきたのです。
そのような病魔の猛攻撃に恐れることなく、引き続き私は、広宣流布と宿業への挑戦に真正面から向き合いました。
本当のところは、御本尊様への信心を堅持し、それらの病魔とゆっくり、そして確実に打ち勝っていったのです。
御書の次の一節のとおりです。


此の経をききうくる人は多し・まことに聞き受くる如くに大難来れども憶持不忘の人は希なるなり、受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は待つにあり、この経を持たん人は難に値うべしと心得て持つなり、「則為疾得・無上仏道」は疑なし。
(四条金吾殿御返事 p.1136)


私の生活は、度重なる健康状態の悪化により困窮していました。
心臓手術後、あまり調子は良くなかったのです。
しかも昔のようには身体を動かせず、働けなくなっていました。
しかし、御本尊様を疑うことなどは、微塵もありませんでした。
池田先生がいつも私たちに教えてくださっているように、「信心に行き詰まりはない」のです。

2010年10月31日、私は突然の訃報にショックを受けました。
母が心疾患に因り急逝したのでず。
そうして、2010年11月7日、内出血により私は入院することとなりました。
母のお通夜の二日目、トイレに入ったときに血便に気づきました。
しかしながら、母の葬儀で多忙を極め、気に留める暇がなかったのです。
葬儀が終了してすぐ、腹部に激痛が走り、吐き気に見舞われました。
下血が止まらず、私の血圧は上が50下が35まで(通常120/80)低下してしまいました。
病院に運び込まれたとき、医師は、何故もっと早く来なかったんだ、と私を叱責しました。

通常は、そんなレベルまで血圧が下がると、心臓麻痺を引き起こす不整脈となってしまいます。
しかしながら、御本尊様のご加護により、私は再び命拾いをしました。
内出血に因り、深刻なまでに失われた私の血液を補充するため、私は輸血を受け、その量は合計で4ヶパックにもなりました。

様々な症状が大事には至らなかったことに想いを馳せていると、医師は検査表の数値と所見及び結腸内部の機能低下とその腫れ具合から、先天性憩室疾患の疑いあることを発見しました。
それらは内出血の結果として生じたものでした。
医師の説明に拠れば、結腸内部に小さな腫れがあるとのことでした。
外科手術によって、それらの全てを摘出することは可能ではなく、例え識別できる全ての腫れを摘出することができたとしても、再発する可能性が高いとのことでした。
したがって、医師のアドバイスは、内出血が起こったときだけ処置を施すというものでした。

日に平均2時間の題目を継続し、私は宿命を使命に変える闘いを続けていく決意をしました。
私は私の人生を、自他共の絶対的幸福である妙法を広める、広宣流布の活動に専念させることを堅く誓いました。
私は、御本尊様と池田先生への報恩感謝の誠を尽くしていきます。

御本尊様への揺ぎ無い信心をとおして、私は何度も寿命を延ばすことができました。
私の病状は安定し、腎臓と結腸への定期的な検査のために通院するだけでよくなりました。
私の家族もまた大きな功徳を受けました。
妻は経理担当者として、嬉々として働いており、至って健康です。
息子は、担保不要の4ヶ年博士課程奨学金を受ける幸運に恵まれ、今はオランダで博士課程の研究をしています。

池田先生のご指導は、日々の挑戦の中で、いかなる時も大きな励ましとなっています。
次の二つのご指導は、苦難の時に、いつも私の指針となったものです。

「永遠に吹き続ける嵐がないように、無期限に続く難もない。
大事なことは、何があっても御本尊への信心を続け、断じて信行学の道を貫くことだ。
信心が揺るがない限り、私たちはいかなる大難をも、宿命転換の機会へと変じることができるのだ。」

「大事なことは、自身の環境に負けてしまう生命の傾向性に支配されないことだ。
不運に立ち向かっていけることが幸運であるように、負けないことが勝利である。
たとえ何が起きても、断じて諦めてはならない。
それが信心である。」

私はSSA(シンガポール創価学会)と、同志の幸福のために働くことを私に教えてくれた信心の先輩に深く感謝しています。
2030年は、学会創立100周年の佳節となる年です。
私は、私の義務として、更なる会合と家庭訪問を通じて、青年を育てることを、ここに堅く誓います。

おわり。





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