女子部の部隊長としてあの広大な北海道をかけめぐり広宣流布に賭けた悔いない青春時代を過ごしてまいりました。
四十九年縁あって、現在の主人と結婚しました。
慣れない東京で六帖一間のアパート生活からスタートしたのです。
そして五十年六月三十日喜びの中で長男精一を出産しました。
元気でスクスクと育っていく我が子と共に毎日が楽しい日々でした。
主人も聖教新聞の販売店をさせていただき二階建ての一軒家を借りる事も出来て新しい仏壇も購入して、新たな決意で朝夕の勤行に夫婦共々「一歩境涯を開いて広布に役立つ人材に成長させてください」と祈る毎日でした。
十月二十七日元気だった精一が突然倒れ、緊急病院へ入院しました。
十日後右の手足が不自由になり、よだれをだらだら流して“おもちゃ”をいじっているではありませんか。
その姿を見た時、私は胸がはりさけそうでした。
何を見ても涙でかすんで体が震えてきました。
毎日が地獄のような苦しみと悲しみでした。
そんな私を見て精一は「ママどうしたの?ママ広布に走れ歌って!」と励ましてくれました。
そして歩く練習をするんだといって歩き出したのですが、思うように歩けずにベッドにぶつかって転んでしまいました。
突然、大きな声で「御本尊様、精ちゃんの手と足治して!南無妙法蓮華経」と泣き叫んだのです。
私はびっくりしました。
あまりの悲しみで御本尊様に祈ることさえできない程、生命力が弱くなっていたのです。
「そうだ、私には御本尊様があるんだ」
そう思うと精一をしっかり抱きしめて「精ちゃん、ママが必ず御本尊様にお願いして、手も足もみんな治してあげる」と涙を流してこたえていました。
それから、すぐ国立小児科に行き十一月十五日入院する事になりました。
その日は骨髄から水を取る検査があり、精一だけ連れていかれ、私達夫婦は病室で待っていました。
突然精一の大きな声が聞こえてきました。
「南無妙法蓮華経!池田先生!御本尊様!南無妙法蓮華経!」
と題目を唱えて泣き叫んでいるではありませんか。
思わず主人と顔を見合わせました。
「精ちゃん!」と心で叫びました。
子供は信心を教えてくれているんだ。
その為に我が身を痛めているんだ。
そう思うと流れ出る涙も決意に変わってきました。
帰ってきた息子をしっかり抱きしめてあげました。
その日から精一と病院生活が始まりました。
夜、寝静まってから、そっと起きて題目を唱えました。
いよいよ検査の十七日を迎えました。
済生会に出発する前に主人がかけつけて「護秘符」を精一にのませてくれました。
一時間半の車の中で不安と高なる思いを必死になって題目を唱えました。
いよいよCTスキャンの検査が始まり、不安がる精一に「ママがいるから南無妙しているから大丈夫よ。」と言い聞かせ、検査中もずっと側にいて、題目を唱えていました。
出来上がった写真を持って診察室へ行きました。
医師は「脳腫瘍です。それも末期状態です。タマゴ二つ程の大きさで、しかも悪性です。頭全体が圧迫されている。今にも手術が必要です。が、ベッドが空いていないので空き次第連絡します。」といわれました。
帰り際に看護婦さんに「もっと早くいらっしゃれば良かったのに」と気の毒そうな顔をされ、言われました。
主人も私も言葉も出ませんでした。
又、国立小児科に戻り、二人の医師に写真を見せました。
二人とも悲痛な顔をして、小さな声で「お気の毒です。」と言って部屋を出ていかれました。
主人と私はただ黙っていました。
言葉を交すと涙が出て悲しくなるから話し合うことすら出来ませんでした。
精一の前で泣いてはいけないと思いながら、顔を見ると涙がどんどん流れました。
もう身も心も疲れきって主人の淋しそうな後姿を見送ってから、ただ呆然と何時間もじっとしていました。
その時、「ママ、疲れてないかい?」と心配そうに精一が私に聞きました。
涙をこらえて「ママは疲れてないよ。精ちゃんは疲れたかな?」と聞くと「いっぱい疲れた。」といいました。
わずか三歳で自分のことより人の事を思う真心に私は感動したのです。
負けてはいけない、悲しんではいけない。
頑張らなくてはと自分に言い聞かせました。
精一も点滴をする時は痛いと言わず「南無妙法蓮華経」と題目を唱えて頑張りました。
毎日二十四時間が闘いでした。
日一日と元気で食事もするようになり二十日に済生会に移り二十三日手術と決まりました。
二十二日念願だった辻副会長に御指導をお受けすることができました。
最初に「子供で悩む宿命です。」と言われ、御書の光日房御書を引かれ、
「小罪なれども懺悔せざれば悪道をまぬがれず大逆なれども懺悔すれば罪きへぬ」(九三○頁)
「人のをやは悪人なれども子、善人なればをやの罪ゆるす事あり」(九三一頁)
の一節を引かれて指導して下さいました。
「脳腫瘍は禅宗の謗法です。今は過去遠々却の謗法のカスが出ているのです。一 つ目、しっかりと過去遠々却からの謗法をお詫びしなさい。そして、先祖の分ま で広宣流布に闘います。二つ目に、子供で悩む宿命を切って下さい。三つ目に子 供は必ず広宣流布に役立つ人材に成長させます。四つ目にどうか広宣流布に闘え る健康な体にして下さい。と祈りなさい。そして、ミサイルのごとく題目を上げ ていきなさい。題目の輸血をするのです。」と言われました。
そして最後に、「退院してからいただきなさい」と三人に「護符」を下さいました。
大確信に溢れた暖かい真心からの御指導に一点のくもりもなく晴れやかな歓喜の生命で病院へかけつけました。
精一も頬をピンク色に染めて、リンゴ、お菓子を凄い生命力で食べていました。
医師もびっくりして「頭は痛くないか?」と、精一に何度もきかれました。
そして、二十三日手術を迎えました。
十時間の大手術でしたが大成功で終わりました。
その陰には、主人と多くの同志の方々が十時間の唱題を送ってくれたのでした。
それから、一ヵ月後には、元気に退院することができました。
しかし、喜びも束の間でした。
深い宿命の根が再び私達親子を攻めてきたのです。
「再発です。しかも、今度は右の手足を命と交換です。その覚悟をしてください。」と医師より言われたのです。
その日の夜は御本尊様の前で泣いてご報告しました。
精一に再び痛い思いをさせる私の謗法と宿命の深さを只々すがりついてお詫び致しました。
一月二十六日、二度の手術と決まり、二十四日再び辻先生に御指導を受けること ができました。
「手術迄二日間しかないことは厳しい。命がない子であっても何としても助けて 下さいと祈りなさい。」と、言われ「こうして本部に指導を受けにこれたこと事態凄い福運なんだよ。しっかり頑張りなさい。必ず元気になるよ」と、激励してくださいました。
二十六日は七時間にわたる手術でした。
結果は、思わしくなく三十九度前後の高熱が二週間以上も続きました。
しかし、酸素テントの中で氷づめにされて震えながら「精ちゃん、病気に絶対負けない。病気に勝つんだ。」と言って頑張る姿は、まるでコンクリートを割って伸びて行く竹の子のような生命力を感じました。
そして、熱も下がり、落ち着きをとり戻した三月二十二日、三度目の手術を宣告されたのです。
これでもか、これでもかと攻めてくる宿命との闘いは一歩もとり除く事は出来ません。
深い悩みと、苦しみの生命を打ち破る自分との闘いでした。
先輩幹部の方々の激励で三たび宿命転換の信心に立ち上がりました。
そして、北海道の主人の実家を折伏してはじめて遠い先祖が佐渡で二代にわたって禅宗の坊主をしていたことがわかったのです。
精一が三回の手術をしなければならなかった謗法の原因がこの時、明らかにされたのです。
三度の手術にもかかわらず、明るく元気になっていく姿は多くの人達を勇気づけ「頑張り屋の精ちゃん」として病棟の人達にも大変可愛がられ、私達親子のために、どんな事もしてくれる人達が、いつも身の回りにいました。
それはまるで諸天善神に囲まれているという実感の日々でした。
私の成長と成仏をさせるために、こんなに痛い思いをしてくれる精一を思うと愛 しくて、可愛くて、只感謝の涙が流れ、御本尊様に、世界一親孝行な子供を授け てくださってありがとうございます、と喜びと感謝の朝夕の勤行をさせていただく毎日でした。
五月二十六日二度と歩けないと言われた足で、歩いて退院することができました。
この日以来、精一は朝、夕の勤行は方便品と自我偈、題目百ぺんと決めて毎日欠かさず実践しました。
精一は時間を惜しむかのように朝から寝る迄元気に遊びました。
六月三十日四歳の誕生日には大好きなお友達を六人呼んで、楽しい思いでをつくりました。
八月に入り、暑さのため、調子が悪く寝込む事が多くなりました。
八月十日夜十時頃、布団からはえおりながら御本尊様の前に行き「ママ勤行しよう。」と言いました。
そして、「寝ながら勤行してごめんなさい。」と御本尊様にお詫びして私と一緒に勤行をしました。
これが我が家で勤行をした精一の最後の姿でした。
この日の夜中十二時すぎ三度目の入院をしたのです。
この日からの一日一万五千円の部屋代をどうして払って行こうかとお金の心配をしなければなりませんでした。
ねむれない日が三日続いた時、いつも精一を可愛がって下さった同じ病棟の御夫婦がお見舞にと、五十万円を無理やりおいて行かれたのです。
「精ちゃんの為ならどんな事でもしてあげたい。」といって涙をながしておられました。
八月二十一日「脳腫瘍は全部消えてなくなっている。又袋が出てきて、その中に水がたまっていたため、脳圧が上がっていたのです。」と、医師より言われました。
しかし、このとき、すでに体力は限界を越えて衰弱しきっていました。
九月十六日の朝八時頃、突然呼吸が乱れ、一瞬にして顔面蒼白になりました。
私は夢中で精一の耳元で題目を唱えました。
体が硬直し完全に呼吸が止まってしまいました。
私は、只「御本尊様、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」一遍一遍の題目を命がけで精一に聞かせました。
看護婦さん、先生達がかけつけてきました。
私は、部屋から出されてしまいました。
すぐ、主人に連絡して廊下で題目を唱えていました。
間もなく主人、区幹部の方々店主の方全員、同志の人達が次々とかけつけて下さいました。
主治医の先生より、やっと部屋に入ることを許されました。
精一は顔を赤く染めて安らかな顔をしていました。
「精ちゃん!」と呼ぶと、澄んだ綺麗な目を大きくあけました。
私は精一が生きていることが信じられませんでした。
手をさわると冷たくなっていました。
「南無妙法蓮華経。」と唱えて手をさすってあげたらその手がやわらかくなり、温かくなったのです。
私は手も足もみな題目を唱えながらさすってあげました。
私はこの時、一遍の題目の尊さと力を知りました。
同時に信心の厳しさ、そして、成仏のむずかしさを命の底から知ったのです。
私は感動のあまり体が震えてきました。
医師は「医学ですべきことは全て尽くしました。会わせる人がいたら全部に会わせて下さい。」と、言われました。
呼吸は、世界で最新の機械を使って呼吸をさせているとのことでした。
北海道からかけつけた主人の兄弟も精一の安らかな美しく輝いている顔を見て、「今までこんな美しい顔を見たことがない」と驚嘆しておりました。
そして、学会員の同志の人達が私達親子を守って下さっている姿に心を打たれ、正しい仏法の偉大さと、創価学会の真実の姿を目のあたりにして感動しておりました。
この日から毎晩「一生成仏抄」を精一に読んで聞かせてあげました。
そして、私は筒を作り、その筒で精一の耳元で題目を聞かせました。
毎日二十四時間をきらさないよう同志の方々にも駆けつけて交代で題目を唱えて下さいました。
十月六日は朝から食事もせずに精一の耳元で題目を唱えました。
「精ちゃんの頭も手も足もみんなみんな南無妙法蓮華経だよ。だからママと精ち ゃんはいつもいつも一緒よ。淋しくないのよ。苦しくないんだよ。広宣流布の流 れの中でママと精ちゃんはいつも一緒だよ。」と心から語りかけ一遍一遍のお題目に真心込めて聞かせました。
それから間もなく精一は静かに安らかに息を引き取りました。
午前十二時二十九分でした。
そのとき、主人も我が家の御本尊様の前で今までかつてない感動と感謝のお題目を唱えていた時間でした。
親子三人、妙法のリズムの中で一つになった時、精一は使命を果たして四歳の人生を終えたのです。
私は悲しみよりも感謝の気持ち出っいっぱいでした。
「精ちゃん。生きて生きて生き抜いてくれてありがとう。」と、頬をなでてあげました。
「御本尊様、どうか精ちゃんを霊鷲山へ連れていって下さい。お願いします。世 界一幸せな子にしてください。」と祈りながら、ずっと題目を唱えました。
秋晴れの告別式、精一の顔は一年間の闘病生活にもかかわらず、やつれることなくふくよかな顔で、まるでお人形のようでした。
いまにも「ママ」と目をあけて話かけるようでした。
大聖人の仏法が御書の一節が真実であることを成仏の相をもって精一は証明してくれました。
それから、一ヵ月後に聖教新聞の本社の前で池田先生にお会いすることができました。
私は「先生!」と、いいながら、先生の手を握って目にはいっぱいの涙をためていました。
先生は、私をじっとごらんになり、「良い時も悪い時もあるんだよ。しっかり頑張りなさい。私が応援するからね。」とおっしゃってくださいました。
それから、一年後思いもかけず新店舗を購入することができました。
そして、二年後の昭和五十六年四月十七日元気な男の子が生まれました。
先生から、「健治」とお名前をいただきました。
不思議な事に生まれてきた子には、
・精一の頭の手術のあとと同じ線
・点滴のあと
・肩のところに“マヒ”してできたアザ
があったのです。
その事を辻副会長に御報告申しあげたら、「それはその子が生まれ変わってきたのです。」と言われ、又「三世の生命が永遠であるという実証だ」と、とても喜んで下さいました。
精一が元気な元気な体で又、親子となって広布のために生まれてきたのだと思うと胸がはりさける様でした。
私は、御本尊様の計り知れない深い慈悲と功徳に只々感謝と感動で胸がいっぱいになりました。
御本尊様、本当にありがとうございます。
生まれ変わった我が子と妹の美恵子、二人の子供と共に元気で親子が闘わせていただける。
それこそ宿命転換の実証を確信して更に広宣流布のため、自分自身のために元気に頑張ってまいります。
以 上
*この体験は、昭和六十三年練馬文化会館で記念勤行会の時、辻副会長が紹介され
た体験です。