シンガポール創価学会(SSA)壮年部体験談集「突破」シリーズ10

師と共に人間革命の道を歩む

ジェリー・テイ副壮年部長


「メンバーへのサポートを通して、私は三つの重要な点を学びました。
それは感謝と慈悲の心、そして歓喜の心です。
初めて題目に挑戦して以来、私は毎日これらの3点を想い描きながら唱題しています。
私は、御本尊様、日蓮大聖人、池田先生、それに私を導いてくれたシンガポール創価学会のリーダー達に報恩感謝の誠を捧げて参ります。」



「師弟の道に徹すれば、恐れるものは何もない。」
日蓮大聖人は書かれている。
『大難来りなば強盛の信心弥弥悦びをなすべし。(椎地四郎殿御書 1448ページ』
君達が後継の弟子である。
外の誰でもない、君達である。
富士山の如く揺るぎない断固とした自己を確立しなさい。
いかなる暴風雨が吹き荒れようとも、獅子奮迅の闘いをするのだ。
永遠の勝利を開きなさい。
(SGI会長 池田大作)


『魂は我が幸福なり、生命は我が悲哀なり
苦悩は我が心身に満ち
我が涙は何かを求めん
若年なれども我が心身は疲れ果て病むべし』

なぜ私は信心を始めたのか?
たぶん自作のこの詩が私の苦悩を物語っています。
それは、日蓮仏法に出会う以前の、私の半生そのものです。
『魂は我が幸福なり』の一節は、生きたい!という私の心の叫びでもあったのです。

若きころ、私は恐怖心と不眠症から引き起こされる精神的な難病に冒されていました。
当時、余りの恐怖心に苛(さいな)まれた私はヒステリー症状を起こし、奇声を発しながら村中を走り回ったものです。
私は悪霊にとりつかれたと思われ、案じた家族が霊媒師の処に駆け込み、「魔除けの水」なる物を飲まされたりもしました。
家族は私の奇怪な行動に悩まされました。
まさに私は厄介者(やっかいもの)だったのです。
私は母にも罵詈雑言を浴びせました。
怒った私は更に乱暴になり、家の中の物を投げつけて破壊したのです。
そんな私のせいで家族はバラバラになり、母は3回も自殺未遂を冒したのです。

更に加えて、私には排尿時に激痛を伴う泌尿器の障害にも苦しめられていました。
私は精神的にも萎縮し、トイレに行くたびに恐怖心を憶えました。
この症状に私は苦しめられ、絶えず自殺を考えるようになっていたのです。

1977年2月、幸運にも日蓮仏法に出会いました。
初めて参加した座談会でのメンバーの誠実さと暖かさに感動しました。
もはや失うものなど何もなかった私は、皆の後ろのほうで題目を唱えてみました。
題目を唱えてみると、急激に身体の奥から込み上げてくるかのような希望を感じ、止めどなく流れる涙は私の頬を伝うのでした。
それは言葉にできない感情であり、束縛された何かが解き放たれて、心の平安が訪れたかのようでした。
自宅への帰路、私の人生を変えるかのような強い衝撃を感じていました。
でもその夜、又もや恐怖心に襲われました。
私は眠ることができず、直ちに題目をあげました。
2時間の唱題後、生命力の高揚を感じ、恐怖心は消え去り心の平静さを取り戻したのでした。

私は毎日1-2時間の題目をあげました。
そうした中で、私は自分の生命の中で本質的な変化を感じ取っていたのです。
当初、それは希望とこれからの進むべき道であったのかも知れません。
しかしながら、次第に母のことを強く意識するようになったのです。
母が子宮ガンと診断されたことも理由であったのでしょう。
母は、血尿が続き食欲は減退、みるみるやせ細っていきました。
長年の心労が祟(たた)ったのであり、もっと早く気づいてあげるべきでした。
私は母の元へ駆けつけ、母の回復と幸せを祈っていると告げました。
母は涙を流して感激し、一緒に唱題しようと言ってくれました。
母と唱題を始めて数ヵ月後、母は徐々に回復し、ついに病魔に打ち勝ったのでした。

私の泌尿器の障害の克服については、とにかく題目をあげきりました。
3年以上もの間、毎日3-4時間、時には12時間以上もの題目をあげました。
広布の活動にも進んで参加し、折伏にも挑戦しました。
そして、ついに私の泌尿器の障害は完治したのです。

私自身の人間革命の姿に触発され、私の妹夫婦や叔母、そして従兄弟も信心を始めました。
父も私の信仰に関心を示してはいましたが、いまだ信心には至っていませんでした。
それでも、私は決して諦(あきら)めずに父の幸せを祈り続けました。
私は父に御本尊様の自宅でのご安置を納得させましたが、許されたのは父の信仰する仏壇や祭壇がある居間の中央ではなく、部屋の隅の方でした。
しかしながら、御本尊様を頂く前の日、私は居間の中央にあった父の仏像や祭壇が片付けられ、代わりに私の仏壇が安置されているのに気がつきました。
父も信心するとの決意を聞いたとき、私は歓喜しました。

ジュニア・リーダーに任ぜられたとき、最も忘れえぬ経験をしました。
19歳になる近所の友人ベンが事故に遭(あ)い、2ヶ月間もの間昏睡状態に陥ったのです。
彼の体重は減少し、まるで少年のような体型になってしまいました。
私は彼の家族を尋ねて励まし、日蓮仏法を信心するよう勧めました。
また、毎日ベンを病室に見舞っては、彼が昏睡状態から醒めるようにとの信念の題目をあげました。
一ヵ月後、いつもどおり病院へ行ってみると、私を見たベンの家族が歓声をあげていました。
最初は何事が起こったのかと案じましたが、ほどなくベンが昏睡状態から目覚めたのだと知らされました。
ベンの家族は歓喜の涙を流し、私も喜びの余り涙したのでした。
退院後、ベンは主治医たちも驚く速さで回復していきました。
驚くべきことに、主治医たちの話では、ベンの両親が毎日題目をあげていたと言うのです。
この素晴らしい実証は、私の金の思い出となっています。

それから暫(しばら)くして、私は職場で生命にかかわる大事故に遭遇(そうぐう)してしまいました。
大規模分解メンテナンス作業後の通常チェックのとき、残留オイルが格納されているタンクのキャップがしっかり締められていないのに気がつかなかったのです。
私がキャップに触れようとすると、それは簡単に外(はず)れてしまい、210度にまで達していた残留オイルが私の顔面に降りかかったのです。
現場責任者は慌(あわ)てて私をプールにまで引きずっていき、私の体温を下げるための応急処置を施そうと試みました。
その間私は、南無妙法蓮華経と絶叫していました。
驚いたことに、私は全く痛みを感じず、唇に少し火傷(やけど)をしただけで済みました。
このような事故では、たとえ残留オイルを衣服の上から浴びたとしても、皮膚移植などのような大手術が必要となるでしょう。
大事に至らなかったのは、御本尊様のお計らいに違いありません。

1994年から1996年にかけて、私は時折胸の痛みを感じるようになっていました。
ある晩、題目をあげていると右目が突然みえなくなり、腕の力が抜けて感覚が麻痺したのです。
私は必死に題目を続け、数時間後、症状はなくなりました。
その症状は一過性のものであり、自分の身体に異常などないと、その時は思い込むようにしました。
しかしながら、次の日にあった会合の最中、不整脈の症状が出て倒れてしまいました。
私は身体に力が入らなくなり、起き上がることさえできなくなったのです。
直ちに友人が私を病院に運んでくれました。
医師は、私の心臓が心電計によって100パターン以上もの不規則な値を示していたので、48時間に亘(わた)って監視せねばなりませんでした。
医師は、このような症状ではいつ心臓麻痺が起こっても不思議ではないと診断しました。
超音波計もまた、私の心臓が肥大しているのを認めました。
薬物療法を施された私は、一週間のうち二回も卒倒してしまいました。
この症状は、石油精製会社での点検業務で高所作業をする私にとっては非常に危険なものでした。


大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頸を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし。
(開目抄下 232ページ 3行目)


私は定期的に病気休暇をとりましたが、時々寝込まねばならぬほどの深刻な症状でした。
不安に駆られて唱題さえもできない日々には、妻が私に代わって一生懸命に回復を御本尊様に祈ってくれました。
聞こえてくる妻の題目の音声(おんじょう)は、ベッドで横になっている私に心の平静をもたらしましたが、それでも時折意味もなく動悸が激しくなったりもしました。
このような状況ではありましたが、自分の残りの人生に於いて偉大な価値を創造しておきたいと考え信心に励みました。
家庭訪問からの帰り道の夜、時には心臓が止まるかのような症状に苛(さいな)まれ、シンガポール総合病院やチャンギ救命救急病院へ車を走らせました。

私の健康を気遣ったシンガポール創価学会理事長(当時)のオン氏が私を見舞ってくれ、池田先生の精神について語ってくれました。
オン氏が帰った後、私は自分自身の信心を見つめ直し、師子吼(ししく)の如く唱題を開始しました。
そうした中、私は漢方医を紹介されたのです。
彼は私の症状について、心臓が60パーセント、それに腎臓が80パーセントしか機能しておらず、このままでは生命に危機が及ぶと診断しました。
幸運にも、彼が処方してくれた薬物療法は、心臓の症状改善に徐々にその効果を発揮していきました。

私は学会活動に参加し、深刻な健康状態にもかかわらず家庭訪問も続けました。
家庭訪問や学会活動を終えた夜は、夜勤に行く前にマウントフェーバーやウエストコーストビーチ、それにケントリッジなどでの唱題会に参加しました。
夜勤開始まで約4時間の題目をあげることができました。
私の病状では、いつ心臓麻痺が起こっても不思議ではないと思われましたが、唱題以外に病気完治の途(みち)はないとも決意していました。
しかしながら、同じく病魔と闘う婦人部メンバーと出逢ったとき、私は考えを改めました。
彼女の闘いは私を感動させただけでなく、人生の意味と目的について覚醒させることとなったのです。

リー・ジュイー夫人は、末期ガンと宣告されていました。
彼女のガンは全身に転移していましたが、並外れた精神力と強盛な信心で闘っていました。
そんな最悪な病状にもかかわらず、7-8年以上もの間、小学校から中学校へ通う子供達を育て上げたのです。
彼女の自宅で一緒に題目をあげたことを思い出します。
力強い彼女の題目の音声は、私の生命の奥深くまで響き渡るかのようでした。
リー・ジュイー夫人は何度も生死の淵を彷徨(さまよ)いながらも、力強く快活な女性でした。
家庭訪問は彼女を励ますはずのものでした。
でも逆に、私の方が彼女の強盛な信心に励まされ、新たな闘いを決意させたのでした。

彼女の人生の最期の日々、悪化する彼女の病状を看(み)るのは辛いことでした。
彼女の幸せをいつも祈ってはいましたが、さりとてどのように彼女を励ませばよいのか分からなかったのです。
死は避けられないものですが、昏睡状態に陥った彼女の側(そば)で、私は彼女の蘇生(そせい)を信じて題目をあげました。
3日後、リー夫人は朝の5時に目を覚まし、未活動の夫と共に題目をあげました。
そして一時間後の6時に息を引き取ったのです。
彼女を失った私たちはいたく悲しみましたが、同時に、彼女の示した偉大な実証と勝利の姿に心打たれました。
彼女は、揺るがぬ信心で勝利した真実の弟子としての生き様を私たちに見せました。
快活な性格でパワフルな題目をあげた彼女は、いつも私の心の中にいます。
そして今、残された彼女の夫は活動家となり、立派な仕事に就いています。
私はようやく気がつきました。
彼女が死の直前、昏睡状態から目覚めて題目をあげたのは意味があったのです。

2005年の中頃、母が心臓発作を起こして倒れました。
運動機能を失った母は病院へ担ぎ込まれました。
医師は、母の生命はもって4日程度であると宣告しました。
兄弟達が母の不測の事態に備えている間、私は母が危篤状態から完全に復活すると確信していました。
母は言葉を発することが困難でありましたが、微(かす)かな声で朝晩題目を唱えました。
母もまた私と同じ確信を持っていたのです。

御本尊様に、私は今まで積み重ねてきた私の功徳を全て母に与えようと誓願しました。
また、池田先生にも母の病状を報告しました。
幸運にも母は、池田先生からの「回復をご祈念しています」という自筆のお返事を頂いたのです。
4日が過ぎましたが、母は生きていました。
母は短期間の治療の後、心臓発作から完全に回復したのです。
母はその後5年も更賜寿命(きょうしじゅみょう)し、安らかに逝去しました。
息を引き取る前夜、母は自分で食事を摂(と)り、看護師たちと冗談を言い合って楽しく歓談していました。
兄弟達は母の安らかな最期に感銘を受け、彼らもまた母と同じような安らかな最期を迎えるために功徳を積みたいと希望しました。
そして私は、母に親孝行できた事と、本当の人間革命ができたことに感謝しました。

宿業と闘うメンバーに接していると、私の信心も磨かれ、師弟の道への理解も深まりました。
男子部メンバーであったマーチン・スィートーの件では、私は15年の歳月にわたって彼の苦闘に寄り添いました。
彼は、マシャド・ジョセフ病という遺伝性の脊髄小脳失調症の一種で、筋肉の運動能力を失う難病と闘っていました。
彼に寄り添っての闘争、特に彼の鬱病(うつびょう)や自殺願望との闘いは困難を極めました。
私は自分自身の宿業との闘いの真っ最中でしたが、休日を返上し、あらゆる時間を費やして、彼と題目をあげました。

マーチンが苦痛に耐えかねて自殺を仄(ほの)めかしたときのことです。
彼からのそんなメッセージを受け取るや、私は彼の家に駆けつけました。
彼は家のドアーを開けるのを拒みましたが、私は彼を励まし続け、彼の家の外から数時間題目をあげました。
ついに彼は家のドアーを開けてくれ、私たちは泣きながら肩を抱き合いました。
それからというもの、私たちの絆は強固なものとなりました。
どのような苦痛や困難があろうとも、私は誠心誠意、彼に寄り添い、彼を支えていこうと決意しました。

御本尊様のお計らいで、彼の偉大な闘争の生涯は、2007年12月14日に「センシャント・ライト(感覚をもった光)」と題された彼のソロ・アート展示会で全て結実され、永遠の勝利の模範となったのです。
私は深く感動しました。
なぜなら、それは偉大な勝利の瞬間でもあったからです。
私はマーチンの告別式で、次のように挨拶しました。

「ミーレブス(シンガポール料理)を食べるとき、当然に私たちはシンガポールで一番おいしいものを求めますが、それだけでも決して満足しません。
マーチンにとっては、ミーレブスを食べること自体(じたい)、口に麺を運ぶこと自体、味わうこと自体、そして食べたものを喉に通すこと自体が大きな幸せであったのです。
彼は不自由な身ではありましたが、報恩感謝の気持ちを持っていました。
宿業と闘う人は、たとえ些細(ささい)なことにも幸せを感じるのです。
振り返って、私たちはどうでしょう?
しばしば生活に満足せずに、不平不満を口にしています。
そのような生き方は、何も価値を生み出さないでしょう。」

マーチンへのサポートを通して、私は三つの重要な点を学びました。
それは感謝と慈悲の心、そして歓喜の心です。
初めて題目に挑戦して以来、私は毎日これらの3点を想い描きながら唱題しています。
私は、御本尊様、日蓮大聖人、池田先生、それに私を導いてくれたシンガポール創価学会のリーダー達に報恩感謝の誠を捧げて参ります。
香峰子夫人は、「愚痴は福運を消し、感謝の祈りは永遠の幸福を創り出す」と言われています。
これは私の指針にもなっています。
困難に出くわしたとき、師弟の道への理解を深めるため、私はいつも自分自身を見つめ直します。
また、より忍耐強くあれということも学びました。
私の人生における挑戦はまだ不完全ですが、人々の幸福のために自分の人生を捧げる潜在的な力に気づかされました。
私は大聖人様や御本尊様、そして池田先生に代わって広宣流布(人類の平和と幸福)を前進させます。
私は希望を必要とする全てのメンバーのために、池田先生のご指導を完全に実践します。
そして、それは私自身をより善き人間とするのです。
人間革命とは、真正の弟子となることが鍵であると心から感じています。

2010年、学会創立80周年に、池田先生は私たちに、人生において勝利すべきであると指導されました。
私にとっては、それは様々な病魔との長い闘いに完全に勝利することを意味します。
そうして、80周年への道程(どうてい)と師弟の道への邁進(まいしん)において、勝利に向かって闘うメンバーと共に、私は獅子吼の精神で奮闘したのです。
2010年8月、MRI(エム・アール・アイ/断層撮影装置)で心臓検査を受けました。
そしてついに医師は、「心臓に異常なし!」と太鼓判を押してくれたのです!
それは、私にとって最も大きな喜びと感謝の瞬間となり、池田先生にも「勝ちました!」と、ご報告しました。
広宣流布への奮闘を通して、私は宿命転換したのです。

私の人生に変革をもたらした池田先生のご指導です。

「世界に広がるSGIの人道主義は、牧口先生から戸田先生、戸田先生から私自身への、三代会長に受け継がれた精神の発露である。
これは、師弟の誓願であり、師弟不可分のものであり、広宣流布という闘争への生命線でもある。
今、私たちの務(つと)めは、人類に希望と恩恵を与えるこの大きな運動の流れを、次世紀、千年万年の外(ほか)、末法までへの拡大に取り掛かることである。
すべては、この血脈を受け継ぐ弟子の闘いにかかっている。
戸田先生はよく言われた。
『大作がいれば大丈夫(だいじょうぶ)だ!』
『君がいる限り私は安心だ!』」

私もまた何も恐れるものなど無いという確信をもっており、世界広宣流布の未来は磐石(ばんじゃく)であると思っています。
そして、それは偉大な師弟の道を歩むシンガポール創価学会のメンバーである私たちがやり遂げるのです。

師弟一体となり、SSA(シンガポール創価学会)の完全勝利に向け獅子の道を歩んでいきましょう!

以上。


Jerry Tay
(※向かって右がジェリー・テイ氏、左は翻訳者)





前のページに戻る。



All Rights Reserved,Copyright(C)Y.B/OfficeLEIBSTANDARTE,2013

Nr.20120114Y0001