SS親衛隊員

フェリクス・ランドウの手記



◆1941年7月3日、レンベルグ

1941年6月30日月曜日、私は眠れない夜の後で多くの理由からEKへの参加を志願した。

9時までに自分の志願が受理されたことを知らされた。

私にとって、立ち去ることは容易なことではなかった。

突然私の中ですべてが変わった。

私は、自分自身をある人[ゲルトルーデ]から引き離すことができないと思っていた。

慕っていた女性があかの他人にどのように変わるのかを私は実感した。[このあたりの記述から、無理やりゲルトルーデのことを忘れようとして、日記のなかでさえ、強がりを書いて、自らを欺いていることが見て取れる。]

いつものように私たちの出発は何度か遅れたが、ついに17:00に出発した。

私たちは一度ならず立ち止まったが、私はいとしく思えるようになった人に再び出会った。

それから私たちは再び出発した。

22:30にやっとクラコフに到着した。

宿泊場所は良好だった。

どんな生き物でさえ慰めにもならない。

もしなりたいと思えば、2、3時間のうちに本当に兵隊になることができるのだ。

その後私たちはプルゼミズルを通過した。

町はまだ燃えていて、路上で撃ち抜かれたドイツとロシアの戦車を目にした。

ロシアの2層戦車を見たのはこのときが初めてだった。

しばらくしてから、私たちはミルニッチェめざして出発した。

[陸軍]部隊が最近通過したことはますますはっきりしてきた。

…1941年7月1日21:30に、私たちはM[ミルニッチェ]に到着した。

私たちは、計画ももたずに目的もなくあたりに立ちつくしていた。

私たちは、ロシア軍の兵学校に宿営した。ここもまだ炎上していた。23:00に私たちはやっと就寝した。

私はベッドの準備を整えた。

手紙を出せるかどうか当然尋ねたけれども、不幸なことに手紙は出せなかった。

1941年7月2日に私たちは前線でのように6時に起床した。

燃えている家屋の傍らには、瓦礫の回りを捜し回っている女たちや子どもたちがいた。

行程の間に私たちはもっと多くのウクライナ兵に出くわした。

ロシア人に近づけば近づくほど、死体の腐敗臭がますます強くなった。[ソ連軍は、ドイツ軍の奇襲攻撃に撃破され、ランドウらの移動は戦闘直後であったので、周囲にロシア兵の死体が散乱していたのだろう。]


◆1941年7月2日午後4時私たちはレンベルグに着いた。

最初の印象は、ワルシャワに比べて無害であるということだった。

到着の直後、最初のユダヤ人が私たちによって銃殺された。

いつものように新任将校のうちの2、3名が誇大妄想に取り憑かれていた。

実際には新任将校たちは職務に誠実に取り組んだ。

私たちは、ボルシェビキのもう1棟の兵学校を宿営として接収した。

ここで、ロシア人は就寝中に捕まえられた。

私たちは、一緒になってぎりぎりの必需品をすばやく集めた。

ユダヤ人が建物を掃除した後、深夜に就寝。


◆1941年7月3日。

今朝手紙を書けることがわかった。

まるで、郵便が実際に発送されたかのようだった。

だから、激しく官能的な音楽に耳を傾けながら、トルーデ[愛人ゲルトルーデ]宛ての最初の手紙を書いた。

手紙を書いている間に、準備をするように命令された。

鋼鉄製のヘルメット、カービン銃、弾薬30発を装備したEK。

私たちはちょうど戻ってきた。

500人のユダヤ人を銃殺するために整列させた。

私たちは、殺されたドイツ人の航空兵とウクライナ人に初めに敬意を表した。

ここレンベルグでは、800人の人々が殺された。

くずども[ユダヤ人のこと]は子どもたちにでさえ一線を画さなかった。

家では、子どもたちが壁に釘で打ちつけられていた。

牢屋に入れられていた者たちのうち、あるものは壁に釘で打ちつけられていた。[ユダヤ人がドイツ人捕虜と現地に住民のウクライナ人を虐殺していたのだと言う。おそらく、ドイツ側が煽ったデマに相違ない。ユダヤ人による虐殺の報復として、500人のユダヤ人を銃殺するのだと言う。]

今日私たちがラドムに戻るのだという噂が流れた。

正直なところ、恋人に再会できるのは嬉しい。[ランドウらの特殊作戦コマンドEKは、ラドムというポーランドの町から出動して、前線に派遣されている。ラドムには、愛人ゲルトルーデが居るのだ。]

私自身が認めようとしていたよりも多くを意味している。

今日1日、警戒体制。

今晩それが起こるはずだ。

ものごとがとてもたて込んでいる。

この混乱の中で覚え書きを書き留めただけだ。

たとえユダヤ人だけであっても、身を守る術を持たない人々を撃つことをほととんど好きになれなかった[無防備のユダヤ人を射殺することに良心の呵責を感じるとランドウは書いているが本心だろうか]。

私は本物の野戦の方がずっと好きだ。

それでは、お休み、可愛いバニーちゃん[愛人ゲルトルーデのこと]。


◆1941年7月5日

午前11時。

「私の秘密の呼びかけを聞いたかい?」という素晴らしい音楽。

どれほど心がひ弱になっていることか。

私の思いは私をここまでやって来させた人で占められていた。

たった10分でさえ彼女に会えるように努力しないことには。

昨夜一晩中監視任務についていた。

ささいな事件によってこれらの人々[ポーランド人]の完全な狂信を見せつけられた。

ポーランド人のひとりが抵抗を試みたのだ。

彼は兵士のひとりの手からカービン銃を奪い取ろうとしたが、失敗した。

2、3秒後、銃声が響きわたり、それで終わりだった。

数分後、手短な尋問の後で、2人めが処刑された。

私たちの街路からちょうど2、3街路離れたところで[ドイツ]国防軍の監視兵1名が射殺体で発見されたことをコマンドが報告したとき、私はちょうど監視を引き継ぐところだった。[味方のドイツ兵が正体不明の犯人に射殺されていたので次の述べるように復讐の銃殺が実行される。銃殺されるポーランド人が実際の犯行に関与していたかどうかは不明である。]

1時間後の午前5時にさらに32人のポーランド人、インテリ層とレジスタンスのメンバーは、自分たちのために墓を掘った後で私たちの宿営からほぼ200メートルのところで銃殺された[後でも触れるが、屋外での銃殺では、犠牲者に地面に大きな穴を掘らせて、彼らをその穴の縁に整列させて、一斉射撃で撃ち倒す方式が採られた。]

彼らのうちのひとりは、単純に死ななかった。

砂から手を突き出して、手を振り、おそらく心臓と思われるあたりを指したとき、砂の最初の層が既に投げ入れらていた。

さらに数発の銃声が響いた。

それから、誰かが-実際にはポーランド人自身が-叫んだ。

「もっと早く撃て!」

なんという人間なんだ?[ランドウらの部隊は、ソ連-ポーランド国境付近で作戦していた。この地域には、ポーランド人、ユダヤ人、ウクライナ人、ロシア人などのさまざまな民族が入り交じって居住していた。程度の差こそあれ、これらの諸民族は、ドイツ人から「下等人種」と蔑まれ、弾圧、迫害されていた。]

まるで今日初めて暖かい食事をとったようだ。

皆に10ライヒスマルク与えられたので、自分たちの必需品を若干購入できた。

私は2ライヒスマルクで鞭を買った。

焼け落ちた家の前を通り過ぎるとき、死体の悪臭があたり一面に立ちこめている。

私たちは眠って時間を過ごす。

午後、およそ300人以上のユダヤ人とポーランド人が処刑された。

夕方、私たちは1時間ほど町に出かけた。

そこで私たちはほとんど説明できないものを目にした。

私たちは監獄の前を車で通りかかった。

それから、私たちは自分たちの兵舎に戻るために出発した。

街路の角でいく人かのユダヤ人が頭から足まで砂に蔽われているのに出くわした。

それを次々に見にいった。

皆同じことを考えた。

これらのユダヤ人は、処刑された者たちが埋葬された墓場から這い出してきたのに違いない。

私たちは足元のおぼつかないひとりのユダヤ人を呼び止めた。

間違っていた。

ウクライナ人は、以前のGPUの要塞のところまで何人かのユダヤを連行してきた。

これらのユダヤ人たちは明らかにGPUがウクライナ人やドイツ人を迫害するのを手助けしてきたのだ。

彼らはそこに800人のユダヤ人を集めた。

そのユダヤ人は、明日私たちによって銃殺されるだろう。

ウクライナ人は、そのユダヤ人たちを今となって釈放したのだった。

道に従って車を進めた。

顔から血を流し、頭に穴を開けられ、手を折られ、眼窩から眼を飛び出させた何百人ものユダヤ人が道沿いに歩いていた。

彼らは血まみれだった。

彼らのうちの何人かは倒れてしまった仲間を抱えていた。

私たちは要塞に行った。

そこで、私たちはほとんどだれも見たことがないものを目にした。

要塞の入り口には、兵隊[ドイツ陸軍の兵士のこと。ランドウらは通常の軍隊ではなく「親衛隊」の所属である。]が監視に立っていた。

大人の腕ほどの太さの棍棒を手にしていて、彼らドイツ兵の前を横切る者がいると、飛び出して行って、それがだれであっても殴っていた。

ユダヤ人たちはその入り口から外へ吐き出されていた。

ひどく物悲しい声をあげてすすり泣く豚のようにひと続きになっているユダヤ人の列であった。

ユダヤ人たちはまったく血まみれになって要塞から流れでてき続けた。

私たちは立ち止まって、ドイツ兵の責任者がだれなのかを捜した。

「だれもいない!」

だれかがユダヤ人を行かせているのだ。

彼ら[ユダヤ人]は[ドイツ兵の]怒りと憎しみからただ殴打されているのだった。[日記の筆者であるランドウによれば、レンベルクの病院に収容されていたドイツ軍の航空機搭乗員であったドイツ兵がユダヤ人にリンチされていたことがわかったために、監視のドイツ兵が「要塞」に収容されていたユダヤ人を暴行しているのだという。しかし、ランドウの書き留めていることはドイツ兵の暴行を正当化するための虚偽ではないだろうか?]

だれもそれに反対しない―彼らはユダヤ人をそのような状態で歩かせるべきではなかった。

ついに私たちは、そこに立っているドイツ兵が彼らの戦友を見舞に訪れただけだったことを知った。

航空兵である彼らの戦友は、実際にはここレンベルグの病院で残忍にも傷つけられていた。

爪を剥がされ、耳を剃り落とされ、眼をくり抜かれていたのだ。

これがドイツ兵の行動を説明していた。

まったく理解できる。

今日の分の私たちの作業は終わった。

現在のところ戦友意識は、まだ良好だ。

気違いじみていて、美しく、官能的な音楽が再びラジオでかかり、いつも私を傷つける君への思いがますます募ってくる。

ただひとつの望みはここから立ち去ることだ―ほとんどだれもがラドムに戻りたいと思うだろう。

ほかの兵隊の多くと同じように―そのうちのひとりである私もこのアインザッツ(特殊作戦)にうんざりしていた。

ほとんど戦闘を目にすることはなかった。

それゆえに、どうにも嫌なこの雰囲気である。


◆1941年7月6日レンベルク

昨夜恐ろしい思いをした。

夢とは人生にとってどれほど真実であり、強烈なものであるのか!

ワルシャワでの出来事のすべて、今ここにいる理由、それらが目の前をとてもはっきりとよぎったので、これ以上何も望むことはなかった。

そのころちょうどそうであったように、心理的にまいってしまった。

そうすること、つまりその向こうを見て突き抜けてゆくことを忘れること―をできないかのように思えた。

もしすぐにT[不倫相手ゲルトルーデのこと]に会えなければ、出かけて行って、自分の計画したことをするだろう。

だれも私を止められないだろう。

気分は疲れ果てている。

たとえ何が起ろうと、ラドムにたどり着かなければならない。[ゲルトル ーデの面影を振り切るためにアインザッツコマンドを志願したにもかかわわらず、ランドウは彼女に未練を感じていることが日記から伺える。]

今日トルーデ[不倫相手ゲルトルーデのこと]になんとかもう1通の手紙を送ることができた。

それはとてもかわいい手紙ではなくて、絶望をめいっぱい表わした手紙だ。

絶望を書き記すことを禁じえなかったのだ。

私たちが再会できることについて今ではずっと希望を抱いている。

今日の午後、工業都市ドロホビッチに立ち寄った後で、コマンドが1941年7月8日にラドムに向かう予定であることを知った。

皆安堵の息をついた。

もし無期限に働き続けなければいけないのであれば、一緒に働くことができなくなっていただろう。

EK(アインザッツコマンド=特殊作戦中隊)から4台のトラックが提供された。

私たちは、いくつかのロシア製の新しい電話とガスマスクを見つけ、持ち帰った。

ああ、ものを新しい部署に移動させ始めなければならない。

今日私は危険な特殊任務について責任を負う。

もしも私たちがそこにいなければならなければ、ものごとを準備する。

だから、トルーデがやって来れる。

起床は8時だった。

長時間眠るので、日中は短くなる。

再びなすべき仕事。

今日文房具店を探すために何回めとして町に出かけた。

実際になんとか1軒見つけることができた。

文房具店は、大いに怒りの種になった。

当然そこにあるものをどれでもくまなくかき回して、なにか使えそうなものを見つけさえした。

私たちが故国で知っているような、ものを書くための紙などここにはないのだ。

けれども、ついに封筒を見つけて、今やもうこれ以上探し回らなくてもよかった。

また、32ルーブル/3.80ライヒスマルクで、すばらしく大きい旅行用バッグを買った。

だから、翌朝8:00についにドロホビッチに移動した。

その地域は部分的にロシア人によって占拠されていることを教えられた。

やっと少しばかり移動したことが嬉しい。

明日にはクラコウとルブリンに行くもうひとつの任務がある。

可愛いトルーデに素早く手紙を書くことができる。

ほかのすべての女に対する私の感情はもう長らく消えうせたままだ。

実際自分自身がどのようにしてそうなったのかわからない。

今朝52000人のロシア人がさらに降伏したことについて特別の発表があった。

2週間以内にロシアに革命が起こるに違いないと思った。[注:ドイツがソ連に開戦した当初、ドイツ軍の連戦連勝が続いた。ここではそのことを指している。もう1度革命が起こってソ連軍が崩壊するだろうと楽観している。実際には、1941年の暮れにはドイツ軍の攻勢は挫折し、ソ連軍の反攻が始まることになる。]

そのときまでに、おそらくモスクワは陥落しているだろう。

今晩私たちはクラコウからの「戦友たち」と親睦の夕べを開くだろう。


◆1941年7月7日、ドロホビッチ

その特別な夕べ[注:戦友たちの親睦会]は朝の6:30に終わった。

事件はなにも起こらなかった。

私は深夜を30分過ぎたころに2人の仲間を選んで、部屋に一緒に行って、 そこで夜を過ごした。

私たちの手荷物が目に見えて増えた。

シェーンラート准将は、アインザッツコマンドの指揮官である。

ロック少佐は司令所で働く。

8:00には出発すべきだった。

結局たくさんの喧嘩をした後で10:00に出かけた。

クラコウの人々は、ほぼ例外なく完全なおべっか使いだ。

私たちは、やって来たとても長い道に沿って引き返さなければならなかった。

数ブロック離れたところにある、何百人もの人々が殺された監獄の臭いが、もう感じられた。

ある種の食べ物を手に入れようとして、数百人もの人が店の前に立っていた。

私たちは、途上で2人のユダヤ人を引き留めた[挙動不審なユダヤ人を逮捕した]。

彼らはロシア陸軍から脱走してきたのだと言った。

彼らの話しは、まったく信じられなかった。

私たちの兵隊[通常のドイツ陸軍兵士ではなくて、「親衛隊員」(兵士)。ランドウの階級は「親衛隊大尉」であり、ランドウは指揮官のうちのひとりである。ランドウの部下が行動したのだろう]のうちの6人が車から降りて、その2人のユダヤ人を車に乗せて、そして次の瞬間両方とも死んだ[ランドウらに射殺された。「怪しいユダヤ人だ」と決めつけると、十分な取り調べを行わずに、即決で射殺してしまった]。

狙いをつけるように命令した[射殺するために銃で狙いをつけるようにランドウが部下に命じた]ときに、技術者であるユダヤ人のひとりが、ずっと叫んでいた。

「ドイツ万歳!」

奇妙だと思った。

いったいぜんたい、このユダヤ人は何を望んでいたのだろう。

16:00に私たちは目的地に着いた。

私たちは兵隊全員分の宿営を探すためにいくつかの組に分けられた。

私たちは、かろうじて住むことのできる3軒の家を見つけた。

以前の[ソ連]共産党職員の家にはどこにでも風呂があった。

また、ウクライナ人たちが上首尾に略奪の仕事をやってのけた[ソ連軍が撤退して、ドイツ軍がやってくるまでの間に、それまでロシア人に虐げられていたウクライナ人がかつてのソ連共産党職員の自宅を略奪していた。]ことを確かめることができた。

実際にしばらくの間彼らが主人であると考えていたのだ。

ここで途方もない衝突が起こるだろう―それを避けることができない。

もうひとつの面白い発見があった。

ここにはラジオセットはほとんどなかったにもかかわらず、どのフラットにもそれぞれのスピーカがある。

スピーカはスイッチオン、またオフされ、調整用のボリュームがあるので、外国放送を聞くことが禁止されていないことを意味している。

この場合、その必要がないのだろう。

私たちはラドムに戻れないのではないかと強く感じた。

そのかわり、可愛いトルーチェン[ゲルトルーデ]が、ここに来るのだ。

私たちは、2、3日ユダヤ人のホテルを占拠した。

むしょうに腹がすいていたので、台所を「査察」し、食べものを少しばかり何とか見つけた。

宿営はとても基本的なものだ。

その場所には、虫がいっぱいいる。

監視任務のために出向かなければいけないので、今閉じなければならない。

明日の1:00に放免されるだろう。

愛しいトルーチェン、お休み。


◆1941年7月8日

今日はあっちこっちに行ったり来りしてもっと気違いじみていた。

現地司令官は、私たちには仕事がないから、ここにいるべきではないと最初に言った。[ランドウら「親衛隊」と現地司令官(国防軍、この場合は陸軍)の側とは、戦地(いわば出先)でも対立していた。「親衛隊」と「国防軍・陸軍」はベルリン(中央)でも対立していた。官僚的な組織のセクショナリズムの険悪な対立である。]

驚くべきことだ!

午後、大尉が状況を明らかにするためにコマンド司令部[ランドウら「親衛隊」の司令部]に行った。

説明では、現地司令官側の誤解だった。

今ではすべてうまくおさまった。

説明では、国防軍とはいっさいのコミュニケーションもないし、協力もない。

これ以上のコメントは必要ないだろう。

昼ごろ、以前共産党の軍事学校だった新しい宿営に移動した。

そこで、私は経理を担当し、馬の世話をするはずだ。

馬小屋で、3頭の小馬を見つけた。

実際に小馬の1家族だった。

雄馬と雌馬、雌の小馬である。

また、小馬用の小さな荷馬車、鞍、そして完全な馬具。

人々はよそよそしい。

監視任務の報告のために出頭したとき、以前に女中だった3人の醜い女が、私をじろじろ見ながらロビーに立っていた。

通訳がやって来て、彼女たちに話しかけた。

これらの女のひとりは、一緒に寝たいかどうかを尋ねてきた。

これらのいまいましい人々は信じられない。

もちろん、ほかの者たちはますますうるさく要求した。

彼女がほかの者と寝ていたと私は思ったが、ありがたいことに寝ていなかった。

さもなければ、部屋の査察のあいだ中ずっと大混乱だっただろう。

夕方、私たちはもう一度戦友の親睦会を開いた。

夕食の最中に、2人の男が私を何人かの女―ホテルの女給仕―のいるフラットに連れて行きたがった。

私はそっけなく拒絶した。

両方ともとてもがっかりしていた。

行きたくなかったし、行けないのだ。

トルーデ[不倫相手ゲルトルーデの愛称]がずっとはるかに心にのしかかっている。

親睦の夕べでも、彼女を考えから追い出すことができない。

とても彼女のことを気にしている。

彼女が私のことをまだ思っていることを、だれが知るだろう。

彼女から1通の手紙もまだ来ない。

私からの手紙を彼女が受け取っているのかどうかさえ定かではない。[したたかなゲルトルーデは、ランドウのモーションをわざと無視し続けることによって、ランドウを苛立たせている。]


◆1941年7月9日

今日はずっと驚いた。

朝、現地司令官からの手紙が届いた。

友好的ではない調子で、私たちの作業はただの書類のチェックだけに制限されるべきであることを知らされた。

さらに、私たちはユダヤ人についての関連事項をなにも尋ねてはならないと、手紙は宣言していた。

予言されていたように、[陸軍、国防軍との協力は]不可能な関係だったのだ。

とてつもない量の作業があった。

再び、私がユダヤ人たちにとっての将軍を演じなければならなくなった。

今日荷馬車がないけれども、馬車と馬具を構成した。

今日樽詰めビールがふるまわれた。

けれども、また、セクト1瓶を1ライヒスマルクで買える。

もしトルーデからの郵便が届けば。

仕事に埋もれている日中はまったくなんともないのだけれども、夜孤独と脱力感が私を絶望に追い詰める。

お休み、トルーチェン。

君のLexiに少しばかりありがとう。


◆1941年7月10日

親睦の集いを午前2時に立ち去った。

気分を軽くして、しばらくの間忘れるために、飲めるだけの酒を自分に注ぎ込んだ。

不幸にも役に立たなかった。

10リットルのビール、2、3本のシュナップ、1リットルの赤ワインでは、まだ望みの効果が現われなかった。

翌日頭のまわりを大ハンマーで殴られたかのように感じた。

今日任務の割り当てのために召集された。

私はSD経済2部出身の同僚とともに働き、さらに、公式に「ユダヤ人将軍」に任命された。

私は、部のために2台の軍用車を手に入れた。

ほかの者たちは、彼ら自身で使うために既に手に入れていたのだが、私にはそうするための時間がなかった。

きちんとした部屋だけ、それだけが欲しかった。

国防軍との議論は続いていた。

担当の少佐は、最悪の種類の国家の敵に違いない。

この少佐を即座に予防拘禁するように今日ベルリンに申請した。

彼の行動は国家にとって危険である。

彼の発言はユダヤ人がドイツ国防軍の保護下に置かれているように取れる。


◆1941年7月14日

今日まで日記を書き進める機会がなかった。

とても多くのことが起こったのだ。

新しい経験であり、新しい印象であった。

1941年7月11日、ドルテ、ビンダー、ギュルス、およびミレックを乗せた軍用車がついにラドムに出発した。

残念なことに彼らに同行できなかった。

少なくとも、彼らに手紙を渡すことができた。

その手紙は多分届くだろう。

また、可愛いトルーデから返事を聞けることを楽しみにしている。

不幸にも同様にもう1通の手紙を受け取る。

もちろん、期待されたように、私たちのKK[刑事コミサール]は…行動したいという渇望を抑えるためにドルテの不在をすぐさま利用した。

ほぼ1時間後、「移動せよ、奴らをすべてここの私のところによこしなさい」というような素晴しい命令か、そんなような命令が鳴り渡った。

彼は望むままに逮捕し、銃殺した。

ほとんどユダヤ人だが、ウクライナ人も混じっている捕虜が少しばかりやってき続けている。

…私たちは夜もぶっ通しで「作業」する。

夕方、戦友のウルバンと私はなんとか時間の都合をつけて、コックに会いに出かけた。

私たちは、ミシュランカ、酸っぱい牛乳と新鮮なじゃがいもをそのコックから手に入れられる。

部屋がとても狭いにもかかわらず、すべてがきれいで快適だ。

人々は友好的で、親切だ。

また、そこにはとても可愛いウクライナ人の女の子がいた。

彼女ができるだろうと思って試したが、コミュニケーションできなかった。

なんとか推測できたのは、彼女が私にとても興味を抱いていたということだけだった。

けれども、私の思いは、いつもずっとトルーデにある。

誘惑されなかったし、けっしてされたいとも思わない。[ドイツ本国に妻子を残しながら、不倫相手ゲルトルーデに狂おしいまでに溺れるランドウではあるが、ウクライナ人(ドイツの占領したソ連領内に住む民族。ソ連の民族の多数派であるロシア人とは対立している。)の女性には手を出さず、一線を画そうというのだ。]

夜11時に基地に戻った。

地下室は活動のために混乱をきたしていた。

そこをその日の朝ちょうど整頓しておいたのに。

50人の捕虜がいて、そのうちの2人が女だった。

監視任務についていた者を休息させるために、すぐさま[監視任務に就くことをランドウ自身が]志願した。

彼らのうちのほとんど全員が、明日銃殺されるだろう。

彼らのうちのユダヤ人のほとんどがウィーン出身だった。

翌日の午前3時まで任務についていた。

結局くたくたに疲れ果てて3:30に就寝した。


◆1941年7月12日

午前6時に私は突然深い眠りから起こされた。

処刑[ユダヤ人の]のために召集されたのである。

結構なことだ。

私は死刑執行人を演じ、それから墓堀り人だ。[銃殺のための射撃手をさせられ、その後で処刑したユダヤ人を埋葬するための墓穴を掘らねばならないことを自嘲している]

なぜ、そうじゃないんだ?

奇妙じゃないか?

戦いを愛していて、それから無防備の人々を銃殺するのだ。

23人を銃殺しなければならず、そのなかには前述の2人の女がいた。

彼らは信じられない奴らだ。

彼らは私たちからコップ1杯の水を受け取ることさえ拒んだ。

私は狙撃手を命じられ、逃げようとする者をだれかれ構わず撃たねばならなかった。

道沿いに町から1キロ車で移動して、それから右折して森に入った。

その地点には私たちのうちの6人しかおらず、彼らを銃殺して埋めるのに適した場所を見つけなければいけなかった。

死ぬであろう者たちが、彼ら自身の墓を掘るためにショベルを手にして集まった。

彼らのうちの2人が泣いていた。

ほかの者たちはおそらく信じられない勇気をもっていたのだろう。

その瞬間にいったいぜんたい何が彼らの心をよぎっているのだろう?

私が思うには、彼らのめいめいがなんとか自分が銃殺されないのではないかというささやかな希望に憩っているのではないか。

ショベルがそれほど多くなかったので、死ぬであろう者たちは3交代に組織された。

奇妙なことに、私はまったく動じないのである。

なんの憐れみも、何もない。

それはまさにそうあるべくであって、そして終わってしまうのだ。

私が似たような状況にいたときに抱いた感情と思考を思わず思い出したときに、心臓の鼓動が少しばかり速くなるだけだ。

1934年7月24日に連邦官房で、私が郷土軍[オーストリア民兵、1919~38年]の機関銃の銃身に出くわしたときのことだ。

そのとき、私にはほとんど弱気になる瞬間があった。

私はそれを見せることを許されていなかった。

いや、私の性格ではそれが問題外であったのだ。

「とても若かったのであって、今は終わっている。」

それは私の考えだった。

それからこの感情を脇に押しやった。

大胆な反抗の感覚がそれにとってかわり、私の死が無駄ではなかっただろうということがわかった。

最後の2人は自分たち自身で墓の前縁のところに立たなければいけなかったので、ちょうど正しい場所に落ちた。

それから若干の死体をつるはしで再び整理してから、私たちは墓堀仕事を始めた。

くたくたに疲れはてたが、作業は続いた。

建物の中のどれも整理しなければならなかった。

だから、作業は休み無く続いた。

午後思いがけなく車がラドムから戻ってきた。

小さな子どものように、郵便を手に入れるのを待てなかった。

それが第一の疑問だった。

不幸にも、郵便を全部読む機会がなかった。

それほど多くなかった。

読み始める前に大尉が私のところにやって来て、新しい事務所に移動し、ものごとを整理し始めるように頼んだ。

だから私たちは11時まで働き、まさにちんけな設計家のように自分自身で計画を練らねばならなかった。

皆が私の作業を誉めた。


◆1941年7月13日

日曜日、作業はすぐに再開された。

ほとんど眠れなかった。

まるで2つの荷物の背負って行進したかのように、脚と頭が痛んだ。

また、共産主義者が背後の山を制圧したことを私たちは知った。[ドイツ軍が占領していてもソ連軍のゲリラ(義勇兵=パルチザン)が出没して、ドイツ軍の治安を脅かしていたのだろう。]

まだ、さらに仕事があった。

やっと、なんとか自分の郵便を全部読めた。

奇妙なことに、私の気分はまったく変わってしまった。

私が読んだ多くのことが私をたいへん心配させた。

ほかのなにごとかは別にしても、トルーデは、彼女が約束を守り続けられるかどうか、十分強いかどうかわからないと書いてよこしたのだ。

なぜ、私がこれほど愛している人にこれが起こるのだろうか?

彼女に会って、話しかけなければならない。

そうすれば、可愛いトルーデは再び強くなるだろう。

彼女がここに来なければならない。


◆1941年7月14日

さまざまな集まりに出席した。

ユダヤ人評議会[ユダヤ人たちはドイツ側の圧力で「評議会」を結成させられた。「評議会」は、処刑される仲間のユダヤ人の人選などについてドイツ側に強制的に協力させられた]。

さもなければ、ほとんどが組織されて、移動させられるだろう。

夕方雌の牧羊犬を見つけた。


◆1941年7月20日

今日は日曜日だ。

再び8時まで働いた。

現在10時、世界で起こっている大きな文脈ではとても重要ではない若干のできごとを記録できる時間をついにやっとの思いで見つけた。

1941年7月15日に戦友とともに以前に述べたウクライナ人家族のところに行った。

それは、とても居心地がよく、また、ほかの人々の習慣に興味を抱く者にはとても面白かった。

私たちは、ほぼすべてのことにわたって話し合った。

コミュニケーションが幾分限られているときに容易に誤解が生じるので触れない方がよいと思ったただひとつの主題は宗教だった。

11時になってもまだ話し合っていた。

そこに向かう途上で―私たちはそこへ小馬と軽装馬車で向かったのだが―なにかとてもおかしいことが私たちに起こった。

最初土砂降りに見舞われたが、それは長く続かなかった。

それからほんとうのロシアのわだち道にそれると、深さ1メートルの路面のくぼみに出会った。

当然何回も揺さぶられて座席からずり落ちた。

それから、とりわけすばらしい場所に着いた。

小馬が前に進み続けている間に、私の荷車は少しばかり後ろに跳ね上がった。

全く突然はねる音を耳にして、振り返ると、戦友たちが脚を宙に突き出してとても深い泥の中に潜っているのを目にした。

状況が不愉快であったにもかかわらず、大笑いを禁じ得なかった。

戻りの旅行は、はるかに悲劇的になりそうだった。

農夫が私たちを主要幹線道路に連れていかなかったなら、私たちは、小馬や軽装馬車ごと溝にはまりこんでいただろう。

この愉快なわだち道のために、深夜まで戻れなかった。

門のところを通り過ぎると、自動車がちょうど発車するところだった。

夜のこの時間にもかかわらず、ものごとがきわめて活発だということがわかった。

私の最初の考えは、なにごとかが起こったということだった。

明らかに、人々は私たちのことを心配して、なにか事件が起こったはずだと考えていたのだ。

…翌朝ウクライナ人と交流することがすべて禁止されたことを私たちは知った。

彼は、つまり大尉のことだが、私たちのだれでもU娘[ウクライナ人の女の子]と変な夜を過ごすのであれば、けっして反対しないが、ほかのすべての接触が禁じられた。

妙な態度だ。

私についていえば、問題外だ。

人々と知り合いになりたかっただけなのだから。

小さな若い犬が一緒についてきた。

日々が過ぎていくほどに、その犬は忠実になるのだが、かってないほど神経質である。

1941年7月16日、再びさらに移動した。

ここでの役割は、役人のひとりというよりも、ますます設計者のひとりであることだ。

今では、それにくわえて、150人のウクライナ人を監督し、訓練を指揮するという責任を負っている。

親方である建築家と設計者を演ずることにきわめて嬉しいのだが、望むただひとつ。

仕事を実行するためのユダヤ人ではなくて作業者を有することだ。

まだ、それはそうあるべき理想なのだ。

1941年7月17日、何も大きなことが起こらなかった。

ユダヤ人をさらに何度かこき使った―それが私の仕事だ。

1941年7月18日。

その日の問題は、だれがラドムに出かけるのかということだ。

突然皆がそこに行かねばならなくなった。

皆彼らはものごとを残してきたので、そこに行かなくてはなにもできないのだ。

だれもスーツケースを持たず、だれもクリーニング屋を持たないのである。

普通軍隊では、命令を実行できないことは厳しく罰せられる。

けれども、ここでは日曜日にラドムにお出かけすることで報われる。

正午に会議が開かれ、期待していたのだが、再び私はラドム行き予定者の中にはなかった。

私は怒りで爆発した。

ここで私が昼となく夜となくあくせくと働いているから、皆が結構な部屋に収まり、すべての快適さを保証されている。

私が一番ささやかな要求をするとき、ほかの者は優先された取り扱いを与えられる。

1941年7月19日。

だからラドムに出かけられなかった。

私が感じたのは、だれでも殺せるということだ。

全員の中で私が出かけることだけが許可されなかった。

次の機会にについてそれほど楽観的ではない。

一日中堅実に働いて過ごした。

私の代わりに1通の手紙だけが届いたときに、可愛いトルーデはどれほど失望するだろう。

私たちがもう1回訪問した日の夕方に、そのわずか1日後になんの予告もなく准将が到着した。

彼は部屋と建物にとても満足した。

いつものように、ほかの者たちは名誉をわがものにした。

それがいつでも与えられた人間の本性のあり方なのだ。

夜就寝すると、静粛、平安と愛を求めるものぐるしい切望がこみ上げてきた。


◆1941年7月21日

昨日むなしくラドムから帰るはずの人々を待った後で、今日も再びできることのすべては待つことだった。

5分ごとに自動車がラドムから戻ってきたかどうかを尋ねた。

何度も何度も私の問いかけは無駄になった。

ついに正午前に車がついた。

そのときに彼ら全員が声を合わせてこう叫んだので、もはや私が質問する必要はなかった。

「フェリックス、君のための小包が1個あるぞ。」

私は安堵の息をついた。

手紙を読むときに、私は部屋に閉じこもった。

それは手短で、概略的だった。

私は心配を始め、暗い考えに囚われた。

こんな短い間にトルーデ[ゲルトルーデ]は不誠実になってしまったのどろうか?

私は不安だ。

私がトルーチェン[ゲルトルーデ]のために与えることは、私と一緒にいてあげることだ。

そうだ、これが私がどう望むかなのだ。

私が思うには、異なったことになった。

ああ、そうだ。

まともな生活は私にとってはるかに精彩に欠けるものだった。

私にはトルーチェンがわからない。

彼女は私の子どもたちと妻の写真を送ってきた。

私は彼女が子どもたちの写真を送った理由を理解できるけれども、妻の写真を送った理由について想像できなかった。

彼らは今日は休日であり、彼らのうちに何人かは狩りに出かけた。

私はここで働かなければならなかった。

感謝と賞賛は、私のやり方に訪れるはずだ。

前に述べた少佐は、5人の部下を伴って再び狩りに出かけた。

作業はさらに順調に進行している。

私が民兵[ドイツ側は現地での補助兵力としてウクライナ人を「民兵」として徴募した]の訓練を引き受けるべきであることを大尉が伝えた。

明らかに、私の態度は適切なのだ。

今日妻の手紙に返事を書き、彼女に180ライヒスマルクを送った。

トルーチェンは、私からの短い手紙を受け取った。


◆1941年7月22日

できごとの多い日だった。

朝私が命令した作業者たちが現れなかった。

ちょうどユダヤ人評議会に行こうとしていると、評議会から同僚のひとりがやって来て、ユダヤ人がここで作業することを拒んでいるので私に支援を頼んだ。

私はそこに行った。

それらの奴らが私を目にすると、あらゆる方向に走り出した。

残念なことに私はピストルを持っていなかった。

そうでなければ、彼らのうちの何人かを射ち倒していただろう。

それからユダヤ人の評議会に行って、もし1時間以内に100人のユダヤ人が作業のために出頭しなければ、彼らのうちの100人を作業のためではなくて銃殺隊のために選ぶことを知らせた。

ほぼ30分後逃げ出した17人と一緒に100人のユダヤ人が到着した。

私は事件を報告し、同時に作業を拒んで逃亡した者を銃殺せよとの命令を与えられた。

正確に12時間後に銃殺が実行された。

20人のユダヤ人が始末された。[ゲルトルーデのことになると心を悩ませるランドウではあるが、一方では作業がはかどらないと見せしめのために何のためらいもなく(命令されたとはいえ)部下にユダヤ人を射殺させる。]

もう1件の事件。

私は、必要な物資を手に入れるために部下のひとりに2人のユダヤ人をつけて送り出した。

彼はいつもの場所から鍵を取り出して、出かけた。

私たちが整理している間に、ウクライナ人のひとりがユダヤ人を邪魔し始めた。

ユダヤ人たちは、当然のことながらドイツ人の完全な承認のもとに、私たちの命令を実行していたのである。

彼は、物置きにあるものについてドイツ人に秘密を漏らすように自分たちをユダヤ人と考えている者たちに頼んだ。

彼は、夕方やって来て、彼らを見つけ、死ぬまで打ち据えてやると言った。

そうか、それが本当に私を逆上させた。

私の意見では、このような人は真の国家の敵なのだ。

だから、私は奴を連れてこさせた。

私の部屋で、彼は自己紹介の方法として私の特別な取り扱いをほんの少し蒙った。

最初に彼は殴られ、血が噴き出した。

最初彼は自分のしたことをなんでも否定しようとした。

4回めに殴られた後で、彼はこの戦術を断念した。

私は、反ドイツ的な態度をとったために彼を逮捕するように命令を与えた。

ドロホビッチの村の近くで、釈放された4人の容疑者がその場で射殺された。

今度はスロバキア人が墓を掘り、埋葬した。

私はユダヤ人評議会がそれをどうとったのかたいへんに好奇心を抱いた。

彼らは全員待っていて、明日歯ぎしりをしているだろう。

また、13番バラックが再び壊されたのを私たちが見つけた。

私たちの車両のゴムタイアを盗もうとした者がいた。

タイアのひとつが鋭利なナイフによって切り刻まれていた。

だから夕方私はもうひとり逮捕した。[ドイツ軍、また親衛隊の支配下にあっても、このようなさまざまな後方撹乱がロシア側(ゲリラやパルチザン)によって試みられた。]

明日私はトルーチェンにここに来るように頼むために協調した努力をしに行くつもりだ。

最後の手段として、もし拒絶されたら、私は転属を願い出るか、なんとか1名獲得しに行こう。

また、同時に私はラドムへの外出を分類しに行くつもりだ。

それから明日トルーチェン宛ての長い手紙を書くだろう。

お休み、愛しいいたずらっ子。

どうかまだ私を愛していて、私のことを考えていて、私に誠実であってくれ。

今、就寝し、君の写真を見、君の本を読む。

目が疲れてくると、本を脇にどけて、君の写真を再び見て、キスし、消灯して、眠りにつく。


◆1941年7月23日

ああ、昨日の計画を行動に移すことができない。

理由は、単に信じられないくらいの量の仕事だ。

しばしばどれほど多くこれを扱えるのか、戸惑うことがある。

今朝8時に私はユダヤ人にさまざまな仕事の詳細について教えて、同時に同様にウクライナ人民兵を訓練した。

午後になると私はもっと多くの仕事を与えられたが、トルーチェンに手紙を書こうと決心する。

たとえ何が起こっても、彼女に会って、話しをしなければいけない。

今日私は若干の共産党旗と武器を見つけた[ソ連側ゲリラが隠していた武器か?]。

作業はすべての建物で迅速に進んでいる。

新しい民兵たちはおそらく私のペースに合わせることが難しいことに気づいたようだ。

今日40人のうち10人が出頭しなかった。

私たちのボスは再び何人かを処刑によって脅かした。[ランドウの部下の下士官(ランドウら将校と一般のSS隊員(兵士)の間の階級)を蔑んで、日記のなかで「私たちのボス」とわざわざ呼んでいるのだろう。彼はウクライナ人民兵の作業の効率を上げるためにさまざまなかたちで民兵を脅迫している。]

そして再びなんの理由もなく脅かした。

彼はウルバンに言った。

「もし、私の調子に合わせなければ、次の処刑に含まれるぞ。」

既に彼についての不満があった。

彼は「レボルバー人民委員」や「晴天兵」とかあだ名をつけられていた。

彼は、白い戦闘チュニックを身につけ、長ズボンをはいている唯一の兵隊だった[その下士官はピストルを振り回すような奇矯な行動をとるだけでなく、軍服の着こなしも派手で常軌を逸していた]。

既に23:00だが、間違いなく手紙を書かなければならない。


◆1941年7月28日

毎晩日記を書こうという良き意図―たとえ何が起ころうとも―は、無価値になった。

深夜やっと2、3行をなんとか書くことができた。

土曜日の朝何曜日であるか気づいたときに、けっこう驚いた。

私はラドムに行くために金曜日に再びドルテ[ランドウの直属の上官]に近づくつもりだった。

私は困惑して、不愉快な心境でその日の残りを過ごした。

深夜11時まで仕事をした。

そのほかに何ができるのか?

ほかの幾人かは正午に出かけて、晩の7:00にウクライナ人の女の子を連れて戻ってきて、そのまま女の子たちを自分の宿営に連れて行った。

私はいまだにその場所を整理していて、カーペットを敷いた。

日曜日私は3:00まで働いて、それから特殊任務(アインザッツ)以来初めて休みをとっている。

金曜日と土曜日に、作業の前線に面白い発展があった。

何人かのウクライナ人は隣村から多かれ少なかれ次のような報告をもたらした。

森の中で殺害された24人のウクライナ人の死体をだれかが発見したというのである。

死体はほとんど識別できなかった。

これが殺人事件であったので、犯罪警察が即座に取り上げて、問題の場所に向かった。

そこで警察は牧師にもったいぶって迎えられ、その牧師から会えて満足だと言われた。

牧師は、殺人とウクライナ人の運命に関心を示すのはきわめて親切なドイツ人であると言った。

死体は厳粛に埋葬され、私たちの将校は参加する以外選択できなかった。

途中で牧師は「最も恥ずべきことは、ユダヤ人の身分証明書や書類が彼らのポケットに入っていたことだということを知っているか?」と私に言った。

今ではこれは信じられない!

これらのウクライナ人だと思われた者たちは、実際には当の23人のユダヤ人と、私が思うには、私たち自身が射殺したウクライナ人だったのだ!

万歳。

死体の書類はおそろしい悪臭を放っていた。

私は彼らに燃料を注ぎかけ、燃やして、墓に埋めるように命じた。


◆1941年7月30日

私にはすばらしく驚きだ。

トルーデ[ゲルトルーデ]から郵便が来たのだ。

私はずっと待っていたことか!

彼女の郵便は私がちょうど手紙を書き終えたときに届いた。

私の気分は100%高揚した。

トルーデはなんとおかしい女の子であることか。

手紙の中で、彼女は人生がまるでそれに依存しているかのようなまったく深刻な、私の愛情生活と結婚についての哲学的論文を書いた。

賢明で経験豊かな女性のような十分に知的な雄弁だ。

彼女自身についての思想も言葉もなかった。

彼女は自分自身を完全に手紙から排除していた。

時折私になにごとかを納得させたがっているような感じがした。

だから彼女は私からもっと容易に逃げ出してしまうのだ。

けれども、それからその手紙を読んだとき、その前日とその翌日これらの考えに微笑を禁じ得なかった。

これらの手紙の行間から私が彼女に感じているような熱烈で情熱的な愛情がにじみ出てきているからである。

ときどき私は夢の中でのように恐れを感じ始める。

彼女は、私にとって自分がどういう意味をもっているのかについてわかっていない。

また、彼女は最近私の内面で何が起こったのか知らない。

もし私にとって大きな意味をもつ彼女が私に幻滅したのであれば、私は完全に困惑してしまっただろう。

死ぬ日まで人間性についての信頼を失ったままだろうと思う。

昨晩、途方もない量の仕事にもかかわらず、さらにトルーチェン[ゲルトルーデ]に6ページの手紙を書いた。

今日内密でD[ドルテのこと。ランドウの上官にあたる。]のもとに召集され、GG(総督)[ポーランド総督ハンス・フランクのこと。フランクはドイツが占領するポーランド領で絶大な権力をふるっていた支配者]が土曜日に来ることを教えられた。

だから旅行は再び棚上げだ。

希望を捨てないでおこう。

トルーチェンに手紙と小さな細密画―バロックの愛の場面を送った。

今日1941年7月31日、再び気違いじみた量の作業があった。

手紙は今日のラドム行きの車で出された。


◆1941年8月1日

昨日私は、なんとかドルテと私にとってたいへん必要であった会話をした。

今回私はうまくはぐらかされなかった。

午後8:00に私の部屋の上にあるドルテの部屋に行き、私と会う時間があるかどうかを尋ねた。

ドルテは、私が部屋に入って、テーブルのところに腰を下ろすように言った。

ブリーゼが彼のところにいた。

彼は、ラドムの女友だちからの10ページの手紙の真ん中あたりを読んでいたところだった。

最初私は少しばかり戸惑ったけれども、この点ではドルテは、私と同じように開放的で、どんな秘密も持っていない。

私と私の事情のほうがずっとましだ。

私は、もっと良い瞬間に出会うことができなかった。

彼は自分の離婚からなにも得ることができず、現在4人の法律家と交渉していた。

それから古き良きブリーゼは去った。

ドルテは私にワインと煙草を差し出し、私たちは古き仲間のように一緒に腰を下ろした。

それから私は煙草の火を消した。

それがとても幅広く知られていて、既に言及されているので、もはや自分の欲することを説明する必要がなかった。

彼の立場は次の通りだった。

もちろん、すべての支援。

まず第一に、トルーチェンはここに来なければいけない。

それから、私たちはさらに取り上げる。

ラドムに関する限り、私は1941年8月9日土曜日に行けるという約束を取りつけた。

だから何事かが封印された。

私はその結果に満足だった。

随分長い後に私の精神は最後に回復した。

私の部下であるウクライナ人の民兵は、「新婚旅行期間」を与えれた。

ユダヤ人は「さらに丁寧に」取り扱われた。

私はいつもよりも多くの煙草を与えた。

私の行動全体によって、なにか楽しいことが起こったと言えるだろう。

けれども、夕食中に怒りを催すのを禁じえなかった。

私のために働いていたひとりのユダヤ女を役立たずであるためにやめさせたから、劣等感コンプレクスにとらわれ、目が飛び出しているガブリエルという者が怒った。

その紳士は私たちが国家社会主義国家に人種法を導入したことを忘れている。

ユダヤ女の顎を優しくさすっていたので、私は既に彼を捕らえて、彼に徹底的に叱りつけた。

そのとき、彼はとても当惑していた。

紳士は既にこれを忘れていたに違いない。

再び22:00まで多くの作業があった。

総督が明日着くために、私の民兵たちは適切に装備を身につけていなければいけない。

およそ40人の仕立て屋[この仕立て屋たちが実はユダヤ人なのである。彼らはポーランド総督フランクが訪問するまでにドイツ軍関係者の制服を新調するという無理難題を押し付けられている。]がほぼ3日間働き続けているが、制服を完成できなかった。

私は激怒した。

もちろん、責めを負うべきはほとんど民兵の指導性であった。

私は即座に[ユダヤ人]長老評議会を召集して、残りの制服全部を明日の正午までに準備しておかなければいけないことを伝え、さもなければサボタージュの罪で5人の仕立て屋を銃殺隊に処刑させるだろうと脅した。

16歳の娘を働かせたいという男が私の前に連れて来られた。

彼自身の述べるところによれば、彼の娘は13歳のときから仕立てに携わってきたのだという。

子どもにどのように振る舞うかを教えるのは、今では警察の番なのだ!

私は自分の血と肉を差し出したいという父親を監獄に送ったので、彼は5回も平静を失った…


◆1941年8月2日 作業が続く。

今朝6時に私たちは作業を始めた。

総督は来ない。

12:00に長老評議会が、すべての制服が準備されたことを私に報告してきた。

作業を拒んだために20人ほど銃殺していたので、すべてがスムースに運んだ。

今晩4人の兵がラドムに出かけた。

トルーデ[ゲルトルーデ]に手紙が速く届くということだ。

また、180ライヒスマルクの金を妻に送った。

手紙を書いて、それをラウフマンに渡した。

トルーチェン[ゲルトルーデ]は満足するだろうか?

また、いくつかのおもちゃを子どもたちのために妻に送った。

ラドム行きの兵たちは、22:00に出発した…。


◆1941年8月5日

今日私たちは到着するはずの女や妻たちのために4棟の建築物を接収した。

ドルテは、ときどき十分に情け容赦なくなれず、とても弱気になる。


◆1941年8月6日

両親に反対して自分自身を主張できるように彼女を十分に強靭にするために、苛酷で困難な闘いをしなければいけないことはすでにわかっていた。

私がそうだったように、彼女を結婚でつまづかせてはいけないだけではない。

彼女は私よりも価値があるのだ。

なにも提供しないなにかのために彼女を投げ出すには、彼女は善良すぎる。

完全に愛しあえる者を愛することを許されていたとしても、はるかに多くを彼女は手に入れるだろう。

今日何人かの兵隊と私は、ユダヤ人のハウスメイドに鶏をローストにさ せた。

また、私たちには新鮮なじゃがいも、キュウリのサラダ、ラスベリーのコンポートがあった。

私の左右の場所を除けば、すべてが完全だった。

私は両方の椅子を見て、仲間に欠けているのは愛人だけだと言った。

それから、兵隊のひとりが自分の妻と彼らの幸福な生活について話した。

好むと好まざるとにかかわらず、このような会話の最中に私はいつでも疎外され悲しい気分になる。

私ができることはなにもない。

現在のところ私には幸せな家庭生活はないのだ。

おそらく、だれかが私が幸せになる手伝いをしてくれるだろう。

お休み、トルーチェン[ゲルトルーデ]。

私に忠実であってくれ…


◆1941年8月8日

…私が起きたときの最初の考えは、限界だった。

明日のこの時間には私たちは既にラドムへ出発できる状態であり、もしすべてうまくいけば午前11時か12時にはそこにいるはずだ。

一度この問題について考え始めると、当然眠りに帰れなくなった。

どこでT[ゲルトルーデ]に会うのか、彼女が一緒にすぐ出かけることができるかどうか、もしも昼過ぎまでに私が着かなかったらどこで彼女を見つければいいかなどを思いめぐらしていた。

彼女の部屋で、美容院で、スポーツセンターで、ドイツ人の家で、また は―私は望まないのだけれども―私の戦友たちのひとりと一緒に。

それから、どこで実際に眠るのかについて考えた。

もし[判別不能の名前]が私の部屋にいなければ、あるいは彼の部屋、それからそこで。

もし彼がいれば、以前の私のフラットを私に一晩貸してくれるように彼に頼んでみよう。

T[ゲルトルーデ]に話すべきことがたくさんある。

バニーちゃん[愛人ゲルトルーデのこと]に心にあることを全部話させよう。

私はたくさんの不愉快なことがらを恐れている。

彼女が私の決心の1/4だけでももっていて、意志が固ければ。

彼女を愛し、すべてを彼女に与え、自分の意志を彼女に移そう。

まだ、22時間以上待たなければいけない。

既にいままでの全人生でなかったほど神経が高ぶっていた…



(BRB@千葉県北西部 訳)




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